今日は月が綺麗に輝いていた。
 雲が白い鳥のように見えた。
 昨日少しだけ髪を切った。
 緑が微風に揺れていた。

 誰の願いが叶わなくとも、君の願いだけは叶いますように。

 深く腰をおろした二人掛けのソファ。他には大した家具のない白い場所。気だるそうにずり落ちた眼鏡を直して、本を広げる君の肩に頭を乗せながら、私は静かに目を瞑る。だいたいの間隔は一定だけど、たまにはすぐに。頁をめくるたびに動く腕が居心地悪くて、居心地がいい。なんだか、ここにこうしている私は自然なんだと思えるから。
 たまにこくりと船をこいでしまったとき、頭がずり落ちないように支えてくれる手の平が大きくて、暖かい。その幸せな感覚で私は目を覚ましてしまう。それでもふと覗きこんだ目が優しく笑って、ひどく安心した私はもう一度、柔らかな眠りに落ちてゆきそうになって。
 君の見ていた本の挿絵が綺麗な月空の写真で、私はまだ口にしていなかった言うべきことを思い出した。
 昨日の夜ね、満月にはまだ足りなかったんだけど、月が綺麗だったよ。
 ころんと寝返りをうつように、君の顔を覗き込みながら言う。すると君は 読点まるがくるまで一列の文を追いかけた後で私を見て、低い声で問いかけた。
 本当?
 君はこんなに何でもない話さえも聞いてくれるから、私は何でもない話をしたくなる。もちろん、君にだけ。白い壁の部屋で、真っ白な気持ちで言いたいことを言える。いくらでも。
 
 そうして過ごした長い時間。そうっと足音を立てる焦がれと危機感。
 いまだ治まらぬ焦燥感。もっとゆっくり。もしくは早く廻って。
 これから訪れるかもしれない闇の時間、私だけにしないで。
 本当に、心から、心の底から祈るよ。
 もしもの結果が出るのなら、私は死んでもいい。

 赤い光の消える自動ドアに塞がれた部屋。出てくる緑の服を着た人に浮かぶ大量の汗。
 横に振られた首。聞きたくない言葉。聞いてしまった。
 君は死んでしまったの? もう、いないの? まだ暖かいじゃない。体、あるじゃない。
 目を開けないの? 話しかけてくれないの? 寝ているだけ。君の声、もっと聞きたいよ。
 生きているって、変。酸素を有害なものに変えて、そして動いているだけ。もっと言うなら緑を茶に変えて、蒼を灰にまみれさせるだけ。生きている私、すごく変。だって死んでしまったと言っても、消滅する魂が見えるわけじゃない。生きているとか死んでいるとか、何が違うの。動くか動かないか? それは大きい違いだけれど。
 なんで私だけ、ここに残されているのだろう。私が立っているのは何の意味のない世界なのに。君がいなければ、世界に意味なんて見出せないのに。まだまだ、聞いてほしいこと、あったのに。
 大きな雲が白い鳥のように見えたとか。昨日は少しだけ髪を切ったとか。病院の庭に広がる緑が微風に揺れていたとか。私、君の代わりに沢山のものを見たんだよ。これ以上はないってほどに細かいところまで記憶して、まるで君がその場にいるような気分になれるように。
 最後に交わした言葉は、君の願いが叶いますように、という一言だった。
 君がずっと願っていたことは一つだけ、私がいつまでも願っていたことも同じ。――ずっと一緒にいれますように。
 この世に存在する全ての人間の願いなんて叶わなくてもいいから、だから君の願いが叶って欲しかった。願いを奪われた全ての人間の白い目が私に向いても構わなかったのに。
 一番一番、願いが叶って欲しい人だったのに。
 
 もう、意味のない未来は求めない。そんなの、馬鹿馬鹿しくって笑っちゃうだけだからね。
 悲しい気持ちがいつか消えるなんて嘘。こんなにも私は苦しい。
 この痛みを失ったとき、私は本当の意味で君を失うのだろう。





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