どこまでも歩くうちに、月は大きく見えるようになってきた。多分このまま歩き続ければ、もっと月に近づいて、もっと月は大きく見える。そう思った私は、真っ直ぐ月を追いかけたい気持ちを押さえて、ただ道の横たわるままに先を急いだ。 ふと足を止める。 足元の水溜りに映る月は歪で、私の爪さえも呑み込めないような浅い水の集まりなのに、月の光は冷たく揺らいでいて、井戸の底に落ちた鏡を見ているような錯覚。錯覚じゃなくて、それが本当だったら。足元にあるのは囲いのない井戸で、映る光は底に沈んだ、まあるい手鏡なのだ。途端に水溜りに吸い込まれそうな目眩を感じて、私は笑った。 歩きはじめた。 あの日、錯覚に満ちた夜を歩いていた私は、月の光に照らされた花を見た。それはまるで一つのギミックで、例えば蓋を開ければか細いメロディの流れ出すオルゴールに似ている。その花にとって月の光を浴びることが蓋を開ける行為のかわりで、蓋を開けて流れ出すメロディは、黄色い花弁が伸びてゆく姿。なんの因果もない月光と待宵草も、こうまでに一体となっていれば精巧なギミックだった。 ただの集合体となっていた花弁が僅かに綻んで、黄色い一片ずつが自分の意思を持って広がる。皺だらけだったそれは、すぐにぴんと伸びて滑らかな表面を晒す。一枚一枚が独立したその瞬間も、花弁はたった一つの額に収まって四方に広がっているだけ。互いの干渉なしでは美しく開くことすらままならない。 すべては私たちにも似ていて、私たちはすべてに似ている。 自分以外のなにかの干渉もなしに存在しているものといえば、原子の粒だろうか。分子さえも、近しい何かとくっつきあって――干渉しあって自分に出来ることを成しているのだから。 ただ追いかけるだけで満たされるなんて嘘。私は月を追いかけて、白い光が大きく見えるようになって、それでもこの手に月を抱けないことを知っていた。追いかけるだけ追いかけて、追い詰めて、その後に残るのはずっと追いかけていた相手がいなくなった喪失感。これを倖せだと思える人は、全世界にどれだけいるのだろう。結局なくしてしまうものを追いかけるしかない悲しい性、とでも言えば格好はつくけど、誰に対しているわけでもないのに取り繕う意味もない。 それでも何かを求めること、それは誰もが持てる美徳。 待宵草は、ただ自分の与えられた運命に従って育って、花を咲かせて、散っていく。植物のもてる運命とは全ての存在の本能に基づくもので、ただ自分と同じものを絶えさせたくないという遺伝子で。 絶滅の反対を追いかける。 どこまでも続く時間を追いかける。 どれほどに追い詰めたら終着駅に着くか分からないものばかり、追いかける。 それでも続いていく。 夜道を歩く足は、常に何かを踏みしめている。これって、一番身近な干渉? ぼんやり思いながら、月を追いかける。 月というものは、実は、続くしかない時間なのかもしれない。時間というものも、私と一体化した干渉? 時間はただ進むしかないけれど、彼らが私たちの中で時を刻む代わりに、私たちは時間というものの未来を創っていける。 途切れ途切れに散歩の話、待宵草の話をした。 私は、夜道を追いかけてきてくれた君に、途切れ途切れに散歩の話、待宵草の話をした。 すべてを聞いて、君は言った。 正論すぎるし、哲学すぎて反吐が出そう。 笑う。 何かを追いかけるだけ何かに追いかけられているから、私は気づかないだけ。 本当は何かを追い詰めることなど出来ないことに。 ようやく戻った水溜り、映る月を見て、私は言った。 檻に閉じ込められて可哀相。本物は何より大きくて、どこまで追いかけても大きくなるだけで捕まらないのに。 君は私の足元の水溜りを見て、笑った。 月が沈んでいく方向に歩くから、大きくなっているように見えるだけだよ。 私は言う。 つまり、私は月を追いかけているだけなのね。 そして思う。何かを追いかけていることは同じなのに、私を追いかけてきた君は、簡単に追いつけるみたいだ。 なら私は、今度から月を追いかけるのじゃなくて君を追いかけよう。そうしたら月と私みたいに、二人でいつまでも同じ場所を回って、ずっと何かしらの関係が続くだろうから。 了 |
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