僕はいつもこうだ。 雪乃が起きている時間を精一杯つかって、感謝と気持ちを伝える。それだけで僕は、僕であるための気力を使い果たしてしまって、結局、雪乃が眠るのと同じ時間を使っても眠りにつけない。それは僕の意識を思考の底に突き落とした。 不器用な僕は、いつも他人に感情を勘違いされる。たとえ嬉しく思っても、なんとも思っていないように勘違いされる。他人に迷惑をかけないことを考えても、しかしそれを実行できたためしがない。それを無意識に分かってくれたのが雪乃で、僕のことを受け入れてくれた。彼女にとっては受け入れると言うよりも、それは誰にだってあることで、ただ僕はそれが顕著なだけらしい。優しい気休めだ。 夜になるたび不安だらけになって眠れなくなる僕とは対照的に、雪乃は寝つくまでの時間が短い。誰より先に静かな寝顔で自分の世界に飛び込む雪乃を、僕は僅かな羨望と、たくさんの優しい気持ちをもっていつも見ている。 きっと雪乃が毎晩訪れる世界に僕はいるだろうが、僕がその世界に入れる気はしない。だから、せめて僕が抱きしめることの出来る、眠る君の隣になら、いてもいいのだろうか。薄い桜色をした爪に触れ、その手を握ってもいいのだろうか。いつか僕は、君の世界に入れるのだろうか。 それでも今は、眠る雪乃の隣に居られればいい。寒くなったら細い肩に毛布を掛けてあげる人間が必要なのは、今までの経験で分かっているから。 雪乃の傍に居られるのなら、夜になっても眠れない僕は毛布係で充分だった。 朝。ベランダに出てみると、霧が濃い。ミルクのようどころか練乳なみに霧が濃い。 朝日も通らない、細かな水分の膜が街中に被さっている。雪乃のたっての希望でベランダの広いマンションを借りたのだが、霧が出ただけでこだわりのスペースは、果てのない真っ白な闇になってしまった。どこまでがベランダで、どこまでが空気かも分からない。きっとベランダを覆う僕の胸ほどの高さの柵がなければ、雲を裂くように霧を裂いて、地上まで落ちていただろう。その空間はとにかく息苦しかった。 おはよイチくん。すごいね、霧。 いつの間にか目覚めて、パジャマの上にマントのように毛布を掛けた雪乃が現れる。僕は「おはよう」とぎこちなく笑い返した。笑ったつもりではいるが、上手く笑えただろうか。雪乃の表情は心なしか影を帯びた。 一歩の距離を開けて霧の中に立っていた僕の脇をすり抜けて、雪乃がベランダに出た。その姿は霧に呑まれて今にも別の次元に消えそうだった。僕は目を細める。肩に触れる程度の黒い髪が唯一、雪乃を僕から完全に隠さないでいてくれた。僕は雪乃との距離を二歩で詰め、背の小さい彼女に合わせて背を丸めながら、その体に腕をまわした。 ね、トランプって四人いるでしょ? 雪乃が突然言い出した。僕は首を傾げながら、雪乃の耳元で頷いた。彼女が僕にとって難しいことを言い出すのは、もう日常の一部だった。 すぐに本題に入らないのも、雪乃の癖。今日も「全部分かる?」と訊ねられたので、僕は一つずつ挙げた。エース。ハート。ダイヤ。あと一つがどうしても思い出せず、必然的に僕の言葉はそこで止まった。雪乃は僕の腕の中で肩を震わせてから、スペードだよと教えてくれた。 僕が「スペード」を忘れていたことがそんなに面白かったのか、雪乃はしばらくの間くすくすと笑いながら僕に背中を預けていた。潔癖症なわけではないが人の体温が苦手な僕でも、雪乃の体温だけはいつまでも傍に留めておきたいと思えた。というより、これが無くなれば僕は二度と口をきくことなど出来なくなるだろう。二度と表情の作り方など思い出せなくなるだろう。死ぬまで雪乃の痕と自分の殻を抱いて生きるだろう。 無意識に、少しだけ僕の腕にこもっていた力が増した。笑い声をひそめ、雪乃は表情だけで小さく笑う。彼女は笑うことが上手かった。 イチくんが言えなかったスペードも入れて、エースとハート、ダイヤの四人ってさ、皆、仲いいのかな。 僕の腕に手を当ててから訊ねた雪乃に、僕は小さく唸ってみせる。ここで考えるのは雪乃が求めている答えではなく、ただ僕が思ったことだ。雪乃は何かにつけて僕の考えていることを聞きたがる。 たぶん、それなりに。 四人の王様がいて、四人のお后様がいて、四人の従者がいる。まぁ皆それなりには上手くやっているのだろう。四人の関係が悪ければ四つの国(王がいるってことは国もあるのだろう)が並立して存在しているはずがなく、一から一〇までの手駒を使って戦争でもはじまりそうだ。 雪乃は僕の答えに満足したのか、小さく負の感情とは縁の無い息を吐いて、僕の腕の中で反転した雪乃は、静かに微笑んだ。そして言う。 私、イチくんの声を聞くと嬉しくなるんだよ。はじめて会ったときは喋ってくれなかったから。 僕が「ごめん」と呟くと、雪乃は目を丸くして僕の顔を覗き込んだ。 そうしてから綺麗に微笑んだ。 じゃあ、もし何かを言うなら、ありがとうにしよう? 雪乃の言葉と笑顔のせいで、僕の顔に血がのぼる。どうしよう、と思った。 どうしようかと考えているうちに、雪乃は背伸びをして僕の耳元で囁いた。 イチくんが居てくれて、嬉しいよ。ありがとう。 僕は思う。周囲に勘違いばかりされて、上手く人間に馴染むことの出来ない僕でも、誰かに何かを与えることが出来るのだと。少なくとも雪乃は、僕から何かを受け取ってくれたのだと。「かけがえのない」なんて言うのは僕には重すぎたが、確かに君は、何よりも必要なもの、だったんだ。 だから、僕も迷いなく言えた ありがとな、雪乃。もう少しだけでいいから、ここから動かないでくれ。 夜、雪乃の隣で眠ることが出来なくとも僕は、もう自分を悲しく思うことなんてないだろう。たったひとりだが、しかし最大級のひとりに、自分が存在するだけで喜びを与えられること。そんな貴重なことを知らずに生きていた僕が、それを知ることができたこと。 雪乃がここにいること。雪乃の毛布係でいられること。雪乃を抱きしめることができること。 雪乃がいること。僕がいること。 それは、かけがえのないもの、だと言っても重いことじゃない。重いことじゃ、なかった。 光の射しはじめた霧の世界で、雪乃を抱えながら。 僕は笑った。 了 |
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