とても傷つきやすい人だ。 あのひとは、誰かが笑えば傷つくし、誰かが怒っても傷つく。そのくせ、笑いと怒りを心底から愛していて、そして僕を無償の信頼で愛してくれている。 今も僕の腕には彼女の頭が乗っていて、彼女は僕の隣で小さな寝息をそっと続けながら眠っている。彼女より先に目覚めてしまったものの、彼女を起こしたくはないし、もう少しだけ長い睫が薄らと影を落とす、この繊細な寝顔を眺めていても罰は当たらないだろう。 ユナミ。小島夕波は僕の大切な人で、僕の全てを明け渡せて受け止めてくれる人だ。 僕とユナミの出会いは唐突で鮮烈で、今でも笑えるほどに馬鹿馬鹿しかった。 2年前。メンバー全員がコピーバンド出の頼りないものではあったが、僕はインターネットで募った同士の3人と共にちょっとした軽いロックバンドを作った。作曲するのは僕で、詩をつけるのはベースのコウジという男。コウジは僕と同い年で、しかし表情筋の働きが心もとない僕とは正反対に、中学生みたいに表情が豊かだ。僕だって感情がないわけではないが、僕の顔はうまく表情をつくってくれない。 僕らがどうにか形にした曲をさらに編曲してくれるのが、ヴォーカリストのエナという女の子。彼女は前にオフラインの友人と組んでいたコピーバンドでキーボードをやっていたというから、世の中は何が才能だか分かっていない人間が多いのではないかと思う。実際問題、エナの歌声は女性のか細い声ではなく、かといって男のごつい声でもなく、中性的な力強さが独特で多くの人間を惹きつける。楽器に頼るまでもなく、彼女は自分の喉だけで正確な――しかも説得力のある歌を唄える。 僕とコウジ、エナの作った曲を一緒に演奏して、バンド全体を引き締めてくれるのがドラムのニイ。ニイはただ1人本名を明かさない奴で、それなのに僕らと同じくらいバンドに馴染んでいるから不思議だ。本名を教えないくらいだから信憑性は分からないが、ニイは僕とコウジよりも3つ年上の23歳だという。エナと比べてしまえばその年の差は5つになる――女性は自分の年齢を少なく、あるいは多く申告するというからには、実際にその年の差はもっとあるのかもしれない。エナは自分では18歳だと言っているが、その実あと1、2歳は若いのではないかとユナミが言った。とにかく、ニイはバンドの兄貴分だ。 僕がユナミと出会ったのは1年前、結成から1年の歳月を経てようやく小さなライブハウスを借り、出演者は僕らだけという、バンドを作ったときからの目標であったワンマンライブにこぎつけた日。僕はエナの斜め後ろでギターの弦を――もちろんエレキギターの弦だが、とにかくギターの弦をピックで弾いていた。こうして今、それを言葉にするととても冷静に聞こえるが、その時の僕はエナにコウジにニイと同じく、とにかく無我夢中だった。 ただ熱中していたあまりにやらかしたミスだ。曲に合わせてギターを振り動かしたとき、僕のピックがこの手から飛んで、床に落っこちた。そして何度か弾んで低いステージから飛び降りた。すでに何枚目かのピックだったので、今は予備の持ち合わせがない。 エナは時折苦しそうな顔をしながら、大きな絶望は、その反動で僕らが深く希望を味わうためにあるのだろうと唄う。彼女の長い黒髪が揺れ動き、首を振りつつマイクから口を離す。ダメージのあるジーンズに二重のタンクトップと、いまいち女の子らしくない格好をしたエナが、デミグローブのはまった片手を僕らに向かって上げる。気づけばコウジとニイも僕を見ていて、そこで僕は、あぁこの曲が終わるのかと知った。 エナの手が小さな円を描き、続いて大きな円を描く。エナが跳ねる。 同時に、ニイは全身の動きも激しくドラムのスティックを振りおろし、コウジはベースを抱えたままで跳ぶ。彼らと同時に僕はヤケになって振りあげた素手で弦を弾き、やはり過剰なアクションで跳ねた。たった一瞬で4人が別々の動きをして、エナとコウジと僕がだいたい同じタイミングで着地した。客席からは悲鳴のような歓声。 僕の右手の爪が何枚か取れかけていた。 不幸中の幸いとはこういったことを言うのか、僕がピックを飛ばしてしまった曲はライブで予定されていた最後の楽曲で、僕は一曲の半分より多くを爪で弾かずに済んだ。そして舞台袖に引っ込んだ後が大騒ぎだった。 「ユトさん、どうしたん? その爪!」 まずエナが僕の手を見てニイとコウジを呼び寄せる。 はじめの頃こそ「ユウト」と発音しろと言い返していた僕でも、さすがにバンドを組んで二年も経てばエナにつけられた呼び名も定着していた。いつもエナは僕のことをユウトと呼ばずにユトと呼ぶ。そのせいでファンにも、ギターの人イコール「ユト」だと思われ、一種の芸名のようになっている。 「おい、なんで爪なんか割れてるんだよ、ユウト。アクシデントあったなら、途中でも言え。俺らどうせ武道館とかアリーナとか、大層なとこでやってんじゃねぇんだし」 「そうそう、ニイの言うとおり。ピックどうしたんだ?」 詰め寄るメンバーに事情を説明して、結局、僕の手にはライブを手伝ってくれたスタッフ――つまるところ、メンバーの誰かの友人たちの一人が持っていた絆創膏が何枚も巻きつけられた。メンバーにスタッフも総出で小さなライブハウスの後片付けをする。僕は気まぐれから吹っ飛んだピックを探してみたが、ライブハウスのどこにも小さな三角形のそれは見当たらなかった。 「きっと、ユトさんのファンの子が気づいて拾って行ったんやないかな。アーティストとしては一流やね。ユトさん」 エナが適当なことを言い、皆が軽い笑いを返しながら打ち上げ会場に決めている居酒屋へ向かう。ライブハウスの裏口を出ると、いわゆる出待ちをしている子たちが何人かいた――それは両手の指に足りるほどの人数だが、受賞経験もないこんな趣味に似たバンドを待つ人数としては決して少なくなんかない。 「こんな暑いのに、ありがと。うちら掃除とかしなきゃあかんから、ずいぶん待ったやろ?」 中途半端な訛りがエナのキャラクターだった。僕らが聞かされている話ではエナの出身は東京らしく、生粋の関西人が聞けば怒り出しそうな言葉遣いだが、生憎とバンドの全国デビューは夢のまた夢も聞いて呆れるほど遠い夢の話なので問題はない。そしてファンに貢ぎ物をもらうのはほとんどがエナで、たまにコウジやニイや僕といった割合だ。 ファンの皆をエナが捌き、ライブハウスの表へ出る。 黒いワンピースを着た女の子が、ライブハウスの壁に凭れていた。そして彼女は僕らを見つける。 「あの、これ……。拾ったんだけど、無いと困るんですよね?」 髪を染めてから時間が経ってしまっているのか、胸元まで垂れる黒髪の毛先から十センチ程度を赤みがかった茶に染めた女の子だった。その子が差し出すのは客席にダイブした僕のピックで、それを見て僕は、そもそも割れてしまったから弦に引っかかるようにして飛んでいってしまったわけで、なんて言葉を心の奥底に封じた。わざわざ出てくるのを待って手渡してくれたのだろうから、ここで冷たい対応をするわけにもいかない。 「あー……うん。まぁ」 冷たい対応をするわけにもいかないが、かといって暖かい反応を返せる僕ではない。 「よかった、渡せて。じゃあ」 と去りかける彼女を引き止めたのはエナだった。エナは黒い袖から覗く白い腕を無造作に引っつかみ、いつもどおりの人懐こい笑顔で言った。 「待って待って、待たんかい。な、ユトさんのピック届けてくれたんやからさ、打ち上げに参加して行かん? なんたって男だらけで、あたしも女の子増えたほうが嬉しいんよ。他の子らにはナイショでな」 「私、偶然通りかかって聞いてみただけで、別にあなたたちのファンじゃないんですけど……いいんですか?」 しかしエナは笑って了承し、次々と彼女にメンバーを紹介した。 「こちらドラムスのニイさん。別にうちらの兄貴なんとちゃうよ。そういう名前なんやて。で、こちら虚弱体質のコジさん」 「エナ、俺は虚弱担当じゃねぇっていつも言ってんだろ!」 いつものやりとりにエナがうしし、と笑い、続ける。 「うるさい男はもてへんよー。分かった分かった、訂正。こちらベーシストのコジさん。ぶっちゃけた話、実際あたしらの中で一番バレンタインとか貰う数少ないんやけどね、コジさんは」 「男は渡された洋菓子の数で決まるんじゃねぇ。第一、一番少ないのは俺だけじゃない。ニイさんとぴったり同数で最下位だ」 「俺を巻き込むなよ、コウジ。っていうか俺らダントツだから、その手の話題は広がっても痛いだけだろ。エナはともかく、ユウトに並ぶくらいの努力はしねぇ?」 それを言うなとかなんとか、ニイにじゃれはじめるコウジは無視してエナの手が僕に向けられる。 「はいはいー。こちらがうちの稼ぎ頭のユトさん。えぇ男やろー」 「稼ぎ頭、お前だろ。エナ」 僕が適当なことを言い返すと、黒いワンピースの女の子はにこりともせずに僕を見た。 「ユトさん、ですよね。手、大丈夫ですか? 最後の曲の終わりごろ、すっごく血が」 「見えてたんだ? 平気なわけないじゃん」 右手の絆創膏たちを見せながら思ったとおりに言い返すと、ぺちんとエナの平手が僕の後頭部に飛んだ。 「真冬の鉄製品か、あんた! もっとソフトな話し方せんかい!」 僕はじっとりとエナを睨み返し、ワンピースの彼女に向き直る。 「えぇと……平気なわけ、ありませんでしょう……? いや、違うだろエナ」 「ユトさんの解釈が変なだけやん! もっと微笑まんとその顔、無駄やで」 3歩歩けば全て忘れるトリ頭のエナはきっと、僕の表情を作る能力が乏しいことを忘れているに違いない。僕は自分にそう言い聞かせ、笑い方を思い出すため何秒か沈思した。すると、ぐにっ、と頬に柔らかい感触。黒いワンピースの彼女が背伸びをして、両手の平で僕の顔を挟んでいた。 「笑わないでも、だいじょうぶ。すごく魅力的な音を出せるひとだもの」 そして彼女は陶器の人形のような顔を緩め、優美で暖かな笑顔をみせた。 その夜、僕は小島夕波と名乗った彼女を抱いた。 僕の腕の上で、ユナミの頭が動く。薄く開いた唇から暖かな吐息が零れ、長い睫に縁取られた目蓋がゆっくりと開いた。目蓋の隙間から細く漆黒の瞳が僕を見る。 「おはよう、ユウト。もう起きてたの?」 ユナミが僕の部屋で暮らすようになって6ヵ月。今ではもはや、寝覚めにユナミの声を聞かないことには一日と生きていられない。 「ん。起きてた」 短く答えると、ユナミは小さく微笑んでから体をひねって僕の上に上半身をのしかけて来た。彼女の肌は白く、柔らかできめが細かく、暖かい。僕はユナミの茶色い毛先に体を擽られ、あまり慣れない笑顔を自然と作る。 「ユトは無表情でクールだけど、ユウトは笑うし可愛いの。私、知ってる」 「ばか、男が可愛くてどうすんだよ」 至近距離で言葉を交わし、僕はユナミの髪を乱しながら手を伸すと、肩のあたりに彼女の頭を抱き寄せる。首を捻り、ユナミの額に唇をつけた。僕の腕の隙間から両手を伸ばし、ユナミは僕の首に腕をまわす。中途半端に開いた唇が唇に触れた。 「コジさん。ど、どうしたらええんかな、あたしら? あ、朝から元気やね……あの2人」 「うわ、でかい声出すなよ。エナ」 ひとつの扉の向こう側でコウジとエナが囁きあい、その後ろで別の扉から現われたニイはくわえ煙草のまま苦笑をもらす。その短い髪は寝癖であちこちが立っている。 「お前ら、覗きはよくねぇぞ」 コウジとエナは声を揃え、 「覗きとちゃうもん!」「覗きじゃねぇよ! 次の会場とれたから朝一で教えてやろうとしたら……!」 ひときわ大きな声で反論する。その声は扉の向こうまで届き―― 「今、エナちゃんとコウジくんの声が……」 ユナミがぴくりと身を起こしてから言い、僕はその背に両手をまわして抱き寄せる。 「欲求不満なやつは無視しろ。ユナミ」 くすりと笑い、ユナミは僕から逃れて起き上がる。僕は急に腕の中の体温がなくなったことで、胸にぽっかり穴が開いた気分を味わった。ユナミの体温は僕より低めが常で、それを抱えることで僕の熱はゆるりと心地よく冷める。ベッドから出て着替え終えると、ユナミはまだ寝転がっている僕の髪をそっと指で梳いてから肩をすくめてみせた。 「4部屋もシェアできる部屋にメンバーで住んでるのに、無遠慮に女を連れ込んでるのは、あなただけでしょ。それで皆を欲求不満呼ばわりなんて、すごくユウトらしい」 「でもそういう自分勝手は嫌い?」 ふざけて僕が切り返し、ユナミの手を引く。彼女は簡単に僕の傍に引っ張られた。 「ユウトは、本当はいいひとよ。私を救ってくれる程度には、いいひと」 ユナミがどこか影のある微笑みで言うので、僕はもう一度彼女を抱き寄せた。 僕は、自分の思うままユナミと接していただけだ。それが地獄のような日々を過ごしていた彼女にとって救いになったのなら、これ以上の喜びはない。未だに地獄の影を引きずるユナミを二度と手放すものかと、僕はぎゅうとユナミを抱きしめた。 了・続 ≪□≫ |
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