全然悲しくなんてないの。貴方は私が死んでしまったことを嘆くけれど、少しも悲しくなんてない。私は今も、貴方の傍で存在していて、言葉を交わすことさえ可能なのだから。貴方以外の人間とは、たとえ親兄弟とだって話すことはできないし、私の姿を見てもらうこともできないのだから。
でも、普通に生きているときから、私の世界には貴方ひとりしか存在し得なかったから。だから、貴方としか喋れず、貴方にしかこの姿を見てもらえないことも、私にとっては物理法則よりも当然のことだったの。
それでも30日に1度、私は貴方さえ感じることのできない、ちっぽけな存在になる。その日は新月の日で、本当なら満ち欠けする月が太陽からの借り物の光で照らす空が、黒曜石を砕いて撒き散らしたみたいに黒く染まる、真の闇になる日。新月の日は、幽霊と呼ばれる私には地獄の1日であって、誰にも存在を感じてもらえず独りきりになる。
その日でなければ、貴方なら私の姿を見てくれる。
貴方なら私の声を聞いてくれる。
貴方なら私を独りから救ってくれる。
私が、全身全霊をこめて愛し慈しんだ貴方なら。

「麗、これどう思う?」
 幸紀は描きあげたカンバスを前にして座ったまま背後を振り返り、半透明の身体でそこに立つ麗に訊ねた。幸紀の左手に開けた窓からは白い光が射し込んで、麗の青白くか細い足を空気に融かしている。
 ――幸紀らしい絵じゃないわ。貴方はもっと暖かい絵を描くのに。でも、光の量が淡くて素敵ね
 衣擦れの音もなく、麗はそっと片手を口元に当てる。2人が一緒に染めたオリーブ色の椅子の背もたれを抱くように向き直ると、幸紀は麗を見た。このアトリエに置いてある本棚と机、木製の大きなイーゼルも同じ色で、それらは全部2人で色を決めて塗って、組み立てた手製の家具だ。
 お気に入りのブラウスとスカートに身を包んだ恋人を見て、幸紀は絵の具で汚れた頬を擦った。
「冷たい絵って注文だったんだよ。正確でそっけなくて冷たい絵っていう注文」
 手が汚れていたために、幸紀が綺麗にしようとした頬は余計に汚れる。麗はくすりと笑って輪郭のはっきりしない手を幸紀に伸ばした。
 ――子供みたいよ、幸紀
 その手は幸紀の頬をすうとすり抜け、空中に落ちる。宙に放り出された自分の手を見て、麗は黒い髪をふわりと揺らしながら幸紀に背を向けた。かすかに震えるその背は女性の美しさを表現する意味でなく、実際に透き通るように白く、そしてわずかに震えている。
「et re dans la lune」
 ――どこの言葉? それ
「フランス語だよ。ぼんやり考え込んでいるとか、現実離れしているって意味の」
 振り返りもせず訊ねる麗に、幸紀は穏やかな笑顔で答えた。膝の上に肘をつき、両手の指を組み合わせる姿勢は、博学な幸紀をさらに利口そうに見せる。麗はそのポーズでこちらを向いているだろう幸紀を見るために、顔を半分だけ振り返らせた。
 麗の思ったとおりに笑う幸紀は椅子に座ったまま手を伸ばし、半透明の腕を掴んだ。この世界でたった一人、自分の他に麗に触れることがきるのは幸紀だけだった。
「おいで」
 ――いやよ。私が貴方に触れることができないのに、貴方は私に触れることができるなんて不公平だわ
 幸紀は疲れたように吐息の混ざった笑みをもらし、少しだけ力を入れて麗の腕を引く。細く重みのない身体は、ふわりと幸紀の腕の中に納まった。
「まったく触れ合えないよりは、いい」
 ――……そうね。確かに、触れることもできないよりはいいわ
 特に、明日は新月の日だもの。麗は心の中だけで付け足した。

 たまに幸紀は寝言で私を呼ぶ。何かに囚われたように、“れい”という響きを覚えるように、聞き取れないほどの微かな声で、苦しげに、求めるように、どこかへ手を伸ばして、私を呼ぶ声、私を必要とする声。
 幸紀が私を呼ぶ夜は絶対と言えるほどに新月の夜で、どれだけ呼ばれても私が答えることはできない。幸紀、と呼びかけても、ここにいるよ、と答えても、どうにも私の想いは言葉にならない。そんな日こそ、幸紀に私を救って欲しいのに。そんな日こそ、私を誰もいない世界に拘束しようと身体中に満ちるこの蔦の感触が、幻想だと云って欲しいのに。
幸紀、そんな声で私を呼ばないで。そんなに切ない声で私を呼ばれたら、余計に自分の無力さを味わうから、だから新月の日には私を呼ばないで。幸紀に聞こえていなくとも、私は新月の日も、他の日みたいに貴方の隣で貴方を想っているのだから。
答えたいの。
応えたいの。
私だって、幸紀が呼んでくれたのなら何をおいても、こたえたいの。でも、言葉にならない日だから。幸紀は、ただいつもの声でいつも通りの言葉を口にして――私にこの長い1日を耐えさせて。
ただ曖昧に幸紀と共にいて、日が経ったと感じる要因は新月が訪れることだけ。確かに、死んだはずの私には幸紀と一緒に生きていられるだけで十分だけれど、それでも私から貴方に触れないことは辛かった。私が生きていた頃は、いつもその黒髪を手で梳いて、撫でて、絵の具に汚れた体を抱きしめていたのに。貴方に触れて、その体温を感じることができるのなら――私は亡霊として幸紀と生きる未来を捨ててもかまわない。
 
「麗」
 アトリエの床に腰をおろして、オリーブ色が基調のチェック柄の毛布に包まって幸紀は眠っている。
「……れい」
 やはり絵の具に汚れた片手が毛布から外へ動き、何かを求めるように宙に伸びてから床に垂れた。
「行くな……行くな……れい」
 透明な意識の塊は床からわずかに浮きあがった足で歩き、亡くした恋人を呼び続ける幸紀に近づく。
 ぽたり、と一滴。
 透明な液体が一滴だけ伸ばされた幸紀の手に落ち、それを感じた彼がゆっくりと目蓋を開けた。小さな声で「麗……?」と呟きながら。幸紀が目を開けたその先に、彼女のお気に入りのオリーブ色のスカートが見えた。白いブラウスが見えた。黒い髪が見えた。清楚で、どこかに愁いを帯びた顔が見えた。麗は少しだけ唇が薄くて、目が大きいわけではないが黒目がちな瞳はぱっちりしている。
 幸紀は思わず自分の頭の上の窓を覗いた。やはり今日は月のない夜で、麗の姿が見えるはずはないのに。
「麗?」
 もう一度、訊ねる。
「そうだよ……幸紀」
 答える麗の頬には彼女の涙が伝っていた。幸紀は、自分の目の前に立っている女性が間違いなく麗であることを知ると同時に、彼女が泣いていることを知った。何も考えられずに彼は彼女を抱きしめる。麗の体はいつものように空気を抱く感触ではなく、柔らかく温かい、生きている人間の感触――麗の感触だった。
 幸紀はまるで他の言葉を忘れてしまったかのように麗の名前を呼び、麗はそれ以外の言葉を知らないかのように幸紀の名を呼んだ。
 1人の前に1人がいる。生きている1人の前に生きている1人がいる。それだけの当然ともいえる事実に2人の思考は飽和して、揃って窓の下に座り込んだ。幸紀は麗を腕の中に抱え続けて、麗は静かに涙を流し続ける。
 窓の外には月の代わりに星が瞬いていたが、麗は幸紀の顔を見る以外にその胸から顔をあげなかった。星を見ることよりも、ただ泣くための場所が必要だったから。
 と、幸紀は体にかかっている重みが徐々に薄れてゆくことに気づく。それと同時に温もりも失われはじめていた。
「麗……?」
「……所詮は、奇蹟だったのかな……。奇蹟なんて、一瞬で通り過ぎるものなのかな?」
 少しずつ、しかし確実に輪郭を失いはじめる麗は付け足した。
「ごめんね。こんなに常識外れな方法を使って、最後に私なんかを強く覚えさせちゃって」
 その声も微かなものへ変わり、幸紀はただ何度も左右に首を振ってから、強く麗の体を抱えた。麗の実体が生前のものなら、その力を痛く感じるほどに強く抱きしめた。
 ――ごめんね、幸紀。でも、
 ――でも必要としてね
 麗の姿は掻き消え、最後に声だけが残った。そして。

 ひとりアトリエに残された幸紀は床に崩れたままで空気を抱く。
 窓の外では、空を埋め尽くすほどの流星が流星群となって流れていた。




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