すべて正常に私と時間を共有していたあの人は、凍ってしまえればよかった。死んで焼かれて灰になって骨だけになる前に、凍ってしまえればよかった。私も一緒に、凍ってしまえればよかった。あなたと同時に、あなたと築いた想いさえ失ってしまった私も、あなたと一緒に凍ってしまえればよかった。
 寒い。
 痛い。
 頬が痛い。
 涙が滑り落ちた跡を、あなたを――ナオユキを失った寒さが切り裂くように。凍えきった世界を撫でる風が私の頬を切り裂くように。本当に皮膚が弾けているのではないかと思うほどの激痛を伴って、風は吹く。白い氷のかけらを舞いあがらせながら、風は――吹く。
 早く私の名前を呼んで欲しい。「ユナミ」と私の名前を呼んで、必要として欲しい。ナオじゃなくとも――急にすんなりと板のようになってしまった私のお腹に宿っていた命なら、その命が私のことを呼んでくれたのなら、私は陳腐すぎる悲劇のヒロインにならなれた。父親を失った子供を独りで育てて、子供のために襤褸切れのようになっても働いて、いつかその子に看取られて、そうして死にたかったのに。
 私は雪が積もり凍結した川辺に座っていた。山奥の、役にも立たないガードレールが立つ舗道から谷へ向かって下り、事故が起きたという痕跡すら残らない谷底の川辺に。
 ず、と音を立てて茶色く染めた短髪から雪が落ちた。落ちた雪は私の体を埋めるように、再び私の頭上から脚に場所をかえて積もる。
 そのときの私は、ひたすら思考をループさせていた。
 幽霊でもいいから会いに来てよ。迎えに来るでもいいから私と会って。私、死んでもいいからナオの傍にいる。時々、思い出したように抱きしめて。思い出したように口吻けて。安らぐから。安らぐから、安らぐから私の前に現われて。
 その中にはあらゆる意味で自分しか入っていないお腹に触れる。
 まだ若いんだから――言われる言葉を跳ね除けて家族と縁を切ったのは、ナオがいたから。時にはナオさえ――嫌だったら堕ろしても仕方ないよ。その言葉に笑顔で首を振れたのは、ナオだったから。そう、ナオは音楽が好きで、ロックが好きで、私のことを愛していて、真面目な人だった。
 だからここで、ナオが車ごと転落して命を散らしたここで、私も凍えて死ぬね。
 私、人生を生きるのが下手みたい――


 白い天井。白いベッド。白いシーツ。白いカーテン。白い壁。
 なんだこれ。とくりと脈打つ心臓――私、死ねなかった?
 しばらくの茫然自失。私はそのときの自分ほど「茫然自失」を体現した人間を見たことがない。何分経ったかも知れない。つまり時間なんてどれだけ無為に過ぎようと構わない。
「ユナミ……? ユナミ、ユナミ!」
 誰。ナオじゃないのなら、他に私を呼ぶのは誰?
 顔を動かす。すると自然に視界もついてきて、私の目には唯一、今も交友関係のある友人の姿が映った。確か名前は――名前は、彼女の名前は、何だっけ。ナオユキではない彼女の名前は、なに。友達、だと思ったけれど、違ったかな。ともだち、って何だっけ?
「だれ」
「あぁよかった。意識戻ったんだね? ……って、だれ、じゃないよ。私」
 “わたし”、たぶん自分を指す言葉。私は、小島夕波。あなたは、だれ?
「……だれ?」
「え……ユナミ? 私だよ、山野麻美。どうしたの?」
 “ヤマノ マミ”、目の前にいる女の人らしい。“どうしたの”、私がなぜここに居るかを問う言葉――だったかもしれない。私は、なぜここに居るの?
「わたし、ナオユキが死んじゃって、子供が死んじゃって、わたしは死ねなかった」
 ナオは凍った雪道で車がスリップして、ガードレールをぶち破って谷底に落ちて死んだの。私はナオの運ばれた病院に行って、ナオが動かなくなっても一緒に居た。そこでお腹が痛くなって、倒れて、意識を失って、目が覚めたときには私は独りだった。手術の痕だけ残っていた。
 だから事故現場に行って、また気を失うまで雪の中に座っていて、そして目覚めたらここに居た。
「あ……見たこと、ある。ここ……ナオが死んじゃったところ」
 私は、ナオと同じ病院に運ばれた――ようだ。マミと名乗った彼女が私の頭を撫でた。
「つらいこと、まだ思い出さないほうがいいよ……ユナミ」
 “つらいこと”、悲しいこと、の意味だった可能性が高い。悲しいのは、ナオと子供が消えてしまったこと。それ以外のことなんか、思い出す以前に知っていたかも分からない。私が私であったことを示す記憶――きおく? 分からない。私が私であったことを示すこと、は、ナオと子供が存在していたということ。でも2人とも死んでしまったこと。
 この人、それを思い出すなって言っている。私が私であったことを思い出すなって言っている。
「おもい、ださない……? 違う! 違う、違う、ちがう! ナオと、子供がいて。だから、わたしがいたの。それを知らなければ、わたしは……わたしじゃない」
「……ユナミ……」
 なんでこの人は私の名前を悲しいもののように――“つらいこと”のように呟くのだろう。そう思った瞬間に混乱――こん、らん? とにかく、何がなんだか分からなくなって、嫌だと叫んだ。離れて、出て行って、来ないで、と叫んだ。

 それからのことは思い出したくない。
 ただ、簡単に説明をすると、心に障害を持った人の入る施設に入院したこと。長い時間をかけて退院したこと。ナオと子供を亡くしたことは私の中に重く深く沈殿していて、折に触れて浮上すると苦しくなる。その記憶はあっても、マミという友達を無くしたことはあまり思い出すことがなかった。
 全て茶色く染まっていた私の短い髪は長く胸元に弛むほど伸びていて、耳の下あたりまでの毛は生まれついての黒色だった。
 私はナオと過ごした東北地方から、首都圏の中心あたりに居を移した。ずっと独りだった。
 ある日、バイト帰りに偶然通りかかったCDショップの軒先で、新人ロックバンドの曲がかかっていた。私は足を止めて、何秒か聞き入った。あの日以来、ロックを聴くのははじめてだったから。
「……嫌……。冷たい音……恐い音」
 口に出したのはそれだけだったが、思ったことはまだある。怒鳴るような声、怒るような声、人をしつこく殴打するような曲。少しも響かない。恐怖の感情しか響かない。ナオと一緒に聞いたロックはもっと優しくて、頑張れって後押ししてくれた。甘えるんじゃないって突き放して、それでもお前のことを見ててやる、って、力強くて頼れる音楽だった。
 ナオの好きだったものが嫌いになるのが嫌で、それでもロックに対する恐怖がねじ込まれてしまって、私は何ヶ月もしないうちにまた引っ越した。首都圏の外れにある少し寂れた中都市では、CDショップが大音量で街にロックを流すことはなかった。
 それから、何事もなく2年がたって。やはり私はバイト帰りだった。
 他の誰かがドアを開けたときに漏れたギターの音。それはエレキギターで、私は反射的に肩をすくめて足を止める――というか唐突に襲われた緊張のせいで足が止まってしまった。
 ドアが閉まっても、その隙間から低く音が漏れ続ける。

 そのギターソロはとても優しい音だった。

 ナオと聞いたロックよりも優しい――思いかけた自分を制する。それでも惹きつけられ続けた私は、ぎこちない深呼吸をしてからライブハウスのドアを開けた。
 優しくて、そっと心臓を包んで、切なくて、全身に心地よく響いて、素朴で、優しい場所に叩き落されるようで、綺麗で、丁寧に強引に闇から引き出されるようで、熱があって、聴覚に気持ちよく揺らいで。はじめはギターにだけ抱いていた好感を、聞き入るうちにバンド全体に持っていた。ボーカルの女の子は本当に格好いい声で唄う。ベースも低い音で優しくバンドを締める。ドラムは人間的な正確さで狂いのないリズムを作る。
 ギタリストの黒髪の彼は手からギターの弦を弾くための小さな道具――後で彼に聞いた話ではピックというらしい――ピックを飛ばしてしまった。彼は瞬間的に戸惑ってから、自棄のように自分の爪で弦を弾きはじめる。曲のラストでドラムの彼を除いた3人が跳んで、彼らだけのライブは終わった。ギタリストの右手は彼の血で赤く染まっていた。
 ライブが終わって観客が帰りはじめた頃、軽い吐息をしてふと視線を落とした足元に、黒地に銀でなんだか物々しい絵が描かれている小さな三角形のプラスチックが見えた。そして私の耳には、
「ねぇっ。ユトのピック飛んでたよね? 早い者勝ちだよっ!」
「ずるいよう! 私のほうがユトさんのこと愛してるもん!」
 なんて声が聞こえて、私はライブの余韻でぼうっとした頭で、あのギターの人ってもてるんだ、とかのんびり考えた。全身で集中して音を聞いて、見るとしたらギタリストの手元だけだったから、ボーカルの女の子はともかく、他のメンバーの顔はよく覚えていない。そもそも、私は建前だけじゃなく本当に外見で人を見たりしない生き方をしていたから、あまり興味のないことだった。
「ね、あった?」
「ううんー。もう誰か持ってちゃったのかなぁ……」
 私の足元に、黒いピック。
 なにを思ったのか、私の足は黒い三角形を靴底に踏みしめた。私はただライブに酔って動けないふりをして――実際にそれは事実だったのだけど、とにかく動けないふりをして立ち続けた。私以外の人がライブハウスから出て行くまで。
 誰も居なくなってから小さなピックを拾って、そしてライブハウスの前に再び立ち尽くした。別に彼らのファンではないし、持って帰ってどうしたらいいのかも分からない。そこで私が思いついたのは、ギタリストの彼にピックを返すこと。
 本当に運が良かったのか、先ほどのバンドと会うことができた私は、エナちゃんというボーカルの子に元気よく他のメンバーを紹介された。あの魅力的な音を奏でられるギタリストの名前は、ユト。そういえば彼のピックを探していたファンの子たちも、そんなことを言っていたなと思い出す。そのまま、なぜだか彼らの打ち上げに参加させられた。その晩――というか朝方、私ははじめてナオ以外の男の人と眠った。


 昨日の夜は抱きしめられたまま眠ったらしく、右半身を下にして目を覚ました私の目の前に、だらしなく襟元を開けたシャツの間からユウトの鎖骨が見える。起こさないようにそっと顔を近づけてユウトの匂いを嗅いで、その頬に唇で軽く触れた。元の体勢に戻ると脇腹に乗る彼の片腕が重かったが、あえてそのままにして今見た夢の続きを思い出す。

 妙な出逢い方をしてしまったあの日から、付き合うとかそういう言葉は2人とも口にしなかったが、互いの匂いとか仕草とか声とか、そういう細かいけれど大切なものを忘れない程度に会うようになった。勿論、昼間。当然、普通に。無論、何事もなく。
 ナオと子供のことが私の心の底から浮上することも苦しすぎない程度に減って、そして何ヶ月か経ったとき。私はユウトに本当のことを告げた。
 はじめて会ったときは、次の日に起きたときね、あなたのことをナオユキと重ねて見ていたの。だから、もう一度会うことは迷ったよ。それでもユウトとまた会うことにしたのは、ナオと重ねないあなたが見てみたかったから。だって、すごく安らいだの。ユウトの匂いも体温も声も奏でる音も、すべてね。ナオを亡くしてから安らいだのなんて、はじめてだった。
 そんなことをユウトに面と向かって言った日。その日、彼は一緒に暮らさないかと訊いてきた。最初は、いきなりなんなのこの人と思ったけれど、1週間も私が考え続けていてもユウトは答えの催促なんて口にせず待っていてくれた。私はユウトに「一緒に暮らしてもいいけれど、その前に一緒にナオのお墓に行ってくれる?」と答えた。すぐにそれは実現した。
 私は曇り空の下、はじめて行ったナオの墓前で両手を合わせて――
 ナオ、ずっと来られなくてごめんなさい。
 でも私は、ナオ。あなたを一生のうちで随分と長いあいだ愛したの。
 これからは、ユウトを。今、並んであなたの前にいるこの人を愛してもいい?
 ……きっと、ナオは許してくれるでしょう? あなたは優しいから。
 でもね、ユウトも同じくらい優しい人よ。だから安心して。
 私、これから私なりに幸せになってもいい――?
 そこまでナオに伺いを立てて、ユウトの顔を見あげた私の視界には。
 私の視界には、さっと曇り空を裂いて光が差すのが捉えられた。
 だから私は、まだ墓石に両目を閉じ続けるユウトの隣でもう一度だけ両手を合わせた。
 ――ありがとう、ナオ




一言でもコメントいただければシリーズとして書く気力も湧きます。




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