あたしの言葉にあたしの音。それは伝えられなくても、あたしの声だけはあなたに届きますように。
 あなたを望んで毎日唄い、毎日思い出し毎日胸の奥がぎゅうと軋む。
 声も望みも、本来ならあなたに届くはずなんかないと知っているから。だからあたしを変な奴だとは思わないで。だからあたしを認めて。ただ、あたしが唄いながら生きることを認めて。

 ひやり。冷たいバーを握りドアを押し開ける。汚れた白い壁と階段。あたしの耳をおおうヘッドフォンは日本のバンドが唄う英語詞の歌を大音量で放って鼓膜を揺らす。すう、と冷気があたしを取り巻く暑気を少しずつ解してくれた。
 今年の夏もまた、あたしのジーンズは子供が大人用を穿いたみたいな大げさすぎる弛みを増やした。ウエストはベルトで止めればなんとかなるが、腿まで過剰にだぶつくのはどうしようもないので仕方なくあたしは布地の重さにベルトの頑張りも空しくずり落ちそうなジーンズで階段をのぼる。どうせうちのバンドはビジュアルで売れるような美点がないのだからどんな格好で唄おうと関係はないのだが、やはり女の子としては人前に出るのならせめて丁度いいサイズの服を着たい。
 階段の下とは違って重たいドアを引き開ける。ぽん、と比較的高めの音で弦が弾かれた。
「なんだ」
 きっとこの「なんだ」の後に「エナか」という言葉が続くに違いない。
「ユナミかと思った」
 そうきたか。 「悪かったなぁ、ユナミさんやのうて」
 自分のバンドのヴォーカルに対して敬う気持ちの欠片もない言葉に目を細めながら言うと、仏頂面のギタリストは顎をさげるように小さく頷いてから手元に視線を落とした。確かにユトさんが話題にノってきたら驚くけどそれでも否定せんのかい。
 あたしは言葉を返すことを諦めて背もたれを抱くよう逆向きになってパイプ椅子に座り、楽譜を片手に持ちつつ視線を壁に貼られたポスターに動かした。ぽん、ぽん、とユトさんは何度か一本だけの弦を弾き、床に座り込んでから気怠そうにギターをかき鳴らす。ステージにあがると無表情なりに楽しそうな顔をみせるが、この人は練習で全員揃うまでの時間とか、休憩中とか、たいていが脱力した体で即興の生気のない曲を弾いている。
 このまま時間が停滞してしまいそうなほど静かでのんびりした空気ができる。
「エナ」
 その空気をユトさんが破った。
「お前まだ忘れてないの?」
 きっとあたしの名前を呼ぶ直前に「あー……そういえば」とかいう気の抜けたコーラよりも生ぬるい言葉が省略されているに違いない。彼が持ち出したのはそんな類のなんでもない話題だった。少なくともユトさんにとっては、なんでもないはずの話題だった。
「せんせーのこと」
 ギターを玩んでいた手を止めてあたしを見あげてくる。
「……あたし高校卒業したんとちゃうて辞めたやんか。だから、あたしが忘れようと忘れまいと、もう関係あらへんもん」
 そう。あの人は、あと一年で卒業というタイミングで現われた。産休の先生の代理で。
「近藤エリナって子知ってるかな?」
 なんてことを、突然に廊下で近藤エリナ本人に聞いてきたひと。あたしはこれ見よがしに教科書の名前が書かれた面を前にして持っていたから、最初は馬鹿だなこいつって思った。
「あたしだけど」
「あ、ごめんごめん。俺は谷川先生の代わりに来た野木倫太郎。谷川先生って軽音部の顧問をしてらっしゃっただろ?」
「それが?」
 あたしは帰宅部だ。
「音楽が好きで、しかもいい声をしていて、だけど何度誘っても軽音部入ってくれない子がいるって聞いたから。どんな子か見てみたいなぁって思って」
 野木倫太郎が言った。
「ナンパ? あたしとりあえず全部断ることにしてんだけど」
「えぇ? とりあえず断るって言うのはヒドイぞ、近藤エリナ。もうちょっと男どもの気持ちも考えてやれよ」
「説教くさー。大きなお世話。あたしに告る男子が常識ないんだから」
「常識がない? それは大きな問題だな。よし、俺が非常識ぶりを聞いてやる。だから、見るだけでも来てみないか? 軽音部。先生たちに秘密でジュース奢るから」
「……ばっかじゃないの?」
 と、第一印象を口に出してその場を離れた。ちょっと面白い奴だと思った。先生らしくなくって、たぶん制服を着ていれば生徒にも見えてしまうようなひと。
 その日の放課後、きまぐれで軽音部を見に行った。
「おー、近藤エリナ。よく来てくれたな」
「ちょっと。フルネームで呼ぶの止めてよ」
「よしよし。いい子だなー近藤エリナ」
 なんて言いながらあたしの頭を撫でる。まるで、母親に手を引かれた子供が偶然見かけた散歩中の犬に触れたがるような感覚で。大きな手だった。
「軽音部員諸君! 未来の部員の近藤エリナが来たから、何か一発やってくれ」
 野木倫太郎はあたしの頭に手を置いたままで声を張る。なんだかむずがゆくなって、あたしは彼の手を掴んで自分の頭からおろした。
「野木倫太郎。だからフルネームやめてって言ってるじゃん」
 若すぎる教師は笑顔で振り向いてから、
「じゃあ、“エナ”な。短くて呼びやすいだろ?」
 彼を見て呆気にとられて、短い間をとった後であたしはどうにか口にした。
「……なんでもいいけど」
 その日、あたしは野木倫太郎から入部届けの用紙を受け取って帰った。
「エナ?」
 と呼ばれてあたしは我に返る。目の前にはかすかに不思議がったユトさんの顔。
「あ、あぁ。うん。べっつにぃ。なんでもない」
「そ?」
 ユトさんは「そうか?」と発音するのも面倒なのか一音に省略して答えた。
「よし。グッジョブ軽音部員! エナ、恥ずかしがるなよ」
「がってない」
 一曲歌い終えてから椅子に座ったあたしに、野木倫太郎は笑いながら頭を撫でる。
 そのあとで先生が部室から出て行ったので、あたしもそのあとを追いかけた。
「どした、エナ?」
「べっつにぃ。先生はどこいくの?」
「別に? そろそろ職員室に戻ろうかと思っただけ」
 答える先生のポケットで携帯電話が鳴った。野木倫太郎は「ちょっと待って」と小さく言ってから通話ボタンを押した。
「もしもし。どうしたんだよ? 18時までは電話するなって言っただろ?」
 聞くつもりはなかった。だって先生とあたしは、教師と生徒のはずで、彼の口調から考えるとそれはプライベートな電話だったから。公用の電話だったのなら余計に聞いてはいけない気もするが、そもそも事実そうであったら生徒の前で電話に出ない。先生の携帯からは女声が届いた。聞こえてしまった。
 ごめん。でも、ケイタの熱がさがったんよ? 早く教えなあかんなぁと思ってん。
 きっと関西弁の彼女は電話の向こうで笑っていただろう。野木倫太郎の表情も安堵に満たされ、その口からそっと吐息が漏れた。あたしはただ馬鹿みたいに立っていた。
「……そうか。よかった。今日はなるべく早く帰るから」
 かえる。
 野木倫太郎が携帯をしまった。
「どうも見苦しいところを……って、エナ?」
 倫太郎があたしに気づいた。未来とかそういう類の、まだ見たことはないけれど確実に存在するはずのものが潰される瞬間を見たみたいに、ただ無表情で立つあたしに気づいた。
「……だれ?」
 詮索するつもりもないし、そうする理由もない。でも聞かずにはいられなかった。
 先生は答えない。
「彼女?」
 いくらか冷静をとりもどしてあたしは重ねて問う。野木倫太郎は左右に首を振った。
「奥さん」
 なにかが壊れた。たぶん、触れてはいけないものが。触れてはいけない何かが存在することすら気づいていなかったあたしは、突然それが壊れたことに驚く。膝が崩れた。
「けっこん、してるんだ」
 壊れたなにかの破片を頭の中で拾い集める。断片を見ただけで元の形が分かった。
 正気だったのか分からなくなった。
「関西弁?」
 彼が答える前に続けて尋ねる。
「ケイタ?」
 子供の名前だと予想をつけるのは簡単な作業だった。
「けっこん、してるんだ?」
「指輪は?」
「いくつで?」
「奥さんどんな人?」
「……なんで?」
 廊下にへたりこむあたしの腕を倫太郎が掴む。引っ張って立たせようとする先生に、あたしは勢いよく立ちあがって飛びつく。彼の首に腕を絡める。彼の首筋に顔をうずめる。顔を離して彼の唇に唇をつける。無理に舌を絡める。乱暴に突き放される。
「近藤!」
 もうエナとは呼んでくれないらしい。野木倫太郎はやはり教師だったらしい。
「好きだよ、野木倫太郎。好き。好きすぎて変になったくらい好き。好き」
 もう一度、先生に抱きつく。彼のワイシャツの襟元を寛げ鎖骨に唇を落す。
「離れろ!」
 あたしを撫でたのは誰よ。あたしを軽音部で唄わせたのは誰? あなたを好きにならせたのは誰? いったい、誰の責任?
「せんせ、抱いてよ。そしたらあたし、自分ちに帰るから」
 制服のリボンを取る。
「じゃないと、ずっと先生とここにいるから。帰らないから。帰さないから」
 制服の胸元を寛げる。野木先生はあたしを見ようともしない。
「好きなだけだよ? 倫太郎が好きなだけだよ」
 がたと重たいドアが開いた。
「ちいす。途中でユナミさんと会って一緒に来ちゃったよユウト。あれ、まだユウトとエナしか来てないの? ニイさんは? あー、ニイさん今日面接で遅れるんだっけ?」
 そう言いながらコジさんはユナミさんと一緒に練習用の安いスタジオに入る。ユトさんがすごい勢いでコジさんを睨んでいる。ユナミさんがくすりと笑ってコジさんから離れるとユトさんの傍に寄り添った。相変わらず仲がいい。
「ユウト、妬いた?」
 ユナミさんが悪戯っ子のような顔でユトさんの顔を覗き込む。
「……コウジがむかつくだけ」
「妬いてるじゃない。だから可愛いって言われるのよ?」
 ユナミさんは背伸びをしてユトさんの顔に顔を近づけ、至近距離で「大丈夫」と囁いてからユトさんに優しく口づけた。あたしやコジさんとしては、こういうときはすごく目のやり場とか立ち居地とかに困る。2人の仲が円満なのはあたしたちも嬉しいけれど。
 親が学校に来てずいぶんと薄着になったあたしを引っ張って家に戻した。死のうかなって思いながら、でも死ぬのも面倒だなとか思っていた。親戚とかがいるからお葬式は出さないといけないだろうし、死亡届も出さないといけないだろうし、あたしの部屋とか始末しないといけないだろうし。あたし自身は死んでいるから痛くも痒くもないけれど、若干後味が悪い。
 とりあえず学校を辞めてみた。
 たぶん野木先生だったら「とりあえず辞める、はヒドイぞ」とか言ったかもしれない。
 でも彼は一生あたしに近づかれたくないだろう。
 携帯でとある掲示板を見つけた。インディーズ以下の趣味バンドになる予定だがギター以外のメンバーを募集するツリーがあった。先生に拒否されたあたしでも、彼にもらったものがある。唄うこと。恥ずかしがらずに唄うこと。
 それで存えられるのなら、あたしは唄う。野木倫太郎に教えてもらったことで生きる理由がつくれるのなら唄う。唄う。生きて唄う。
 そのバンドはのちに「Hellcat」と名づけられた。意味は意地悪女とか、じゃじゃ馬とか、もしくは魔女とか。
 ヘルキャット。

 曲はユトさんが作る。詞はコジさんが書く。編曲はあたしがするけれど。
 とにかく、あたしの声だけはあなたに届きますように。
 あなたを望んで毎日唄い、毎日思い出し毎日胸の奥がぎゅうと軋む。
 声も望みも、本来ならあなたに届くはずなんかないと知っているから。だからあたしを変な奴だとは思わないで。だからあたしを認めて。ただ、あたしが唄いながら生きることを認めて。
 ただ、ひとがすきなだけ。
 ただ、あなたが、まだ、すきなだけ。




一言でもコメントいただければシリーズとして書く気力も湧きます。




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