過去も今も未来も、全部乗り越えていくこと。それがあの日から俺の目標だった。 妹にベースを壊された。 といってもクミが俺の楽器を壊そうとして壊したわけでないことは分かっている。あいつがなんとなくベースを手に取ったとき、馬鹿みたいなタイミングのよさで地震がきて物が崩れて、そして落ちた荷物が俺のベースに当たってボディと指板が思い切りよく取れてしまった。それを最初に聞いたときは「お前が俺のベース動かすから!」なんて怒鳴ってしまったが、時がたつにつれクミが怪我しなくてよかったとかクミが壊そうとして壊したわけでないだとか、そういうことが分かってきた。 はじめて自分で金を溜めて買った楽器が壊れてしまったことは、ただ寂しかった。 バンドをはじめた。ヘルキャットというバンド。メンバーは皆がいい奴すぎて息苦しくなるくらい。ただちょっとヴォーカルの女は(いい意味で?)生意気だったが。 いつものように俺の部屋に入ってきたクミは、「今日はどこに行ったの?」と聞く。適当に答えていると、「ちゃんと知りたいの」と言って怒る。バンドに入ったと教えると、「女の人がいるの?」と聞く。ヴォーカルがお前より幾つか年上の女だと言うと、「………」黙る。 「妬いてんのか?」 俺が冗談で言うと、「妬いてるよ!」と勢いよく言う。妹にあの女とそういう雰囲気はないからだとか説明するのも馬鹿馬鹿しくて、本当にお前はブラコンだなぁと笑いながら頭を撫でた。クミはまだ中学生だが今年中学を卒業すればすぐに高校生になる。 「おにーちゃん」 と俺のことをどこか改まった声で呼び、回転式のオフィスチェアの上で胡坐をかいていた俺の上に腰をおろすクミ。ふざけて重いと言ってやると、「うそ、あたし太った?」とか真顔で聞き返してくる。そういうわけじゃないと答えると、「よかったぁ」と笑う。妙にひっついたままの沈黙。 クミは体をよじって俺に抱きついた。 「おにーちゃん優しいから好き。他の男子は恐いから嫌いだもん」 他の男子は恐いってなんだ。とはいえ実の妹(もしくは弟)に好きと言われれば嫌がる兄や姉はいない。俺は笑ってクミを撫でた。 「はは。ありがとな。でももうちょっと俺以外の男にも慣れないと高校入っても彼氏できないぞ?」 クミはしばらく沈思したあとで俯き、消え入るような声で「いらないもん」と答えると俺の部屋を出て行った。 俺の両親は共働きで、オヤジは出版社で編集をやっていてオフクロは看護婦をしている。となれば必然的に2人ともが次の日まで帰ってこない日があるわけで、その日はまさに2人が帰ってこない日だった。 俺は風呂に入っていた。 しばらくして物音がすると、クミが風呂場のガラス戸を開けた。 「わ……? ちょっ……なに!? ドッキリカメラ!?」 わけのわからないことを口走ってから慌てて湯船に逃げる。向こうが服を着ていて俺は服を着ていなくて、これが偶然の産物であり男女が逆ならばなんとも深夜アニメ(的イメージ)な展開なのだが。運悪く偶然の産物ではなかった。クミは服を着たまま無言で風呂場に侵入し、浴槽の向こう側にしゃがんで俺の首に両腕をまわすと顔を寄せる。どうせなら全てを冗談で済ますためにガラス戸を開けられた時点できゃーと叫んでおけばよかったと今の俺は心底から後悔している。クミが俺の体を撫でた。クミが俺の体を舐めた。 はじめて自分の性別を疎んだ。 これって親近相姦っていうんじゃないのか? 抵抗したもののそのまま強姦されるように俺は妹と関係をもってしまって、妹は俺のことを「コウジ」と呼んだ。いつものように「おにーちゃん」でなく、苦しげな声で「コウジ」と呼んだ。 なにがなんだか分からなくなり、なにを信じたらいいかも分からなくなった。 妹に襲われたこととか、勢いに流されて妹が女に見えたこととか、妹が俺をそういう目で見ていたことだとか、すべてがショックだった。 次の日の朝、自分のベッドで妹が一緒に寝ているのを見て吐き気がして、朝方に戻ったオフクロをも起こさないように音を立てずに家を飛び出した。あてはない。 すべては偶然だった。適当に所持金の許す限り遠くまで行ける切符を買い、電車に飛び乗ってから空席ばかりが目立つ椅子にどかりと座り込む。立っていられる気がしない。 「コウジ?」 最近知り合った、よく知った顔。矛盾しているがそう表現するのが一番だ。 「……ニイさん……」 泣きそうな声が出てしまい、我ながら焦る。 「やっぱお前か。なにしてんだ? 俺はバイトのせいでこれから帰るとこだけど」 そう言ってニイさんは俺の隣に腰をおろした。さすがに妹に“された”なんて言えるわけもなくしばらく無言でいると、ニイさんはバックパックをごそごそと探ってから煙草を取り出した。車内は全車両終日禁煙じゃないのかと少しだけ絶望の中から驚きが漏れた顔で見ていると、ニイさんは平然とライターを取り出してから言った。 「ばれなきゃイんだよ。吸うか?」 当時18歳フリーターだった俺に、年齢を知りながら平然と勧める。黙って左右に首を振った。 「……なにがあったのか知らねぇけど、まともな分別残ってる程度ならお前、まだ平気だと思わねぇか?」 ニイさんは煙りを吐き出しながらぽつりと言った。この人になら本当のことを話してもいい。大丈夫だと、自棄半分に判断した。俺はかいつまんだ事情を話す。 俺が話をしている間いくつかほぼ無人の駅があり、それでも電車は逐一止まった。途中で俺らの乗っていた車両に何人か乗ってきたので、ニイさんは名残惜しそうに火を握り消してから窓を開け外に煙草を捨てた。 「きついなぁ、それ」 ニイさんは言った。 「今日……ていうか昨日、コウジとエナが帰ったあとユウトとお互いに家賃がヤバいって話してたんだけどさ、そこで同居とか話出たんだよ」 ニイさんは続けた。 「コウジ。お前、そんなことあっちゃ家に居づらいだろ? 選択肢のひとつとして、俺とユウトと3人でルームシェアってどうだ?」 選択の余地はないと思う。 オフクロもオヤジも、別に息子の一人暮らし(ではないが正確には)を全面否定するような人たちではないし、情けない話だがそのときの俺はクミが――妹が恐かった。あいつは言っていたからだ。そう、最中に。俺の上に乗って、俺の子供が欲しいと。泣いていた。 ありえない。まずありえない話だ。妹のブラコンが度を越していて兄貴を襲ってあまつさえ法的に認められるわけのない子供が欲しいと言うのだから。それを聞いた瞬間は鳥肌がたった。決して己惚れでも驕りでもなく事実として、あいつは周りのことや未来のことが何一つ考えられないほどに俺を愛していたのだ。実の兄を、男として見てその上に何よりも愛していた。 そう思うのは、もしも。もしも俺とクミに子供ができてしまったとしてその子はどうなる? そういう類の考えが妹からすっぽり抜け落ちているからだ。よく覚えていないが保健体育の授業だってこれくらいの話はするだろう。子供が欲しいといって、そのための行為をしてくるくらいなのだから。 「あぁ……いいね」 俺は震えた声でニイさんに答えた。 それから1年後。 朝。目覚まし時計の電子音が鳴る。その目覚まし時計の主が殴り止めた衝撃で目覚まし時計が床に転がり落ちる。どんどんと乱暴なノックをした。んー、だか、むー、だか、適当な返事が返ってきた。俺はそいつの部屋に踏み込む。 「エナーっ! お前は毎朝毎朝毎朝……」 枕元で怒鳴る。エナは布団から出した片手をひらひらと振る。 「うるさー……」 なんだコイツ。 「うるさー、じゃねぇ。おら、起きろ。お前今日バイト午前中なんだろ?」 「うん。ねる」 「寝るってお前……俺だって悠長に他人起こしてるほど暇じゃねぇんだよ」 とかなんとかぼやいてから軽く丸めた手をエナの額に近づける。指先でその額を弾く。 「う……なにすんねんコジさん……」 「起きたな?」 そう言ってエナにデコピンをかまして俺は枕元から立ち去る。しかしエナは小さな声で「虚弱」と呟いた。こいつ、いつもいつも俺のこと……。 ベッドの上でエナが布団に隠れる。 「エナ」 「きょじゃく」 布団から目だけを出してからもう一度重ねて言いやがったので、俺は足音荒く枕元に戻る。無理やりベッドから引っ張り出してTシャツの後ろ首を引っつかむ。まるでとある黒猫の宅急便の配送トラックに描かれたキャラクターになったようだ。俺は親猫のほうだが。 「明日からは絶対に起こさねぇ。絶対放置する」 そう言うと、子猫役の女は目を擦りながら答えた。 「コジさんが勝手に起こしに来るんやんかー……」 襟首を掴んだままふらふら起きあがったエナをリビングまで連れて行く。 男3人でシェアする予定に同じバンドだからと言って女を誘うわけにもいかないので、まぁあいつは放っておけと3人ともが思っていたのだが意外にもエナは地元から離れたい理由があるらしく、「あたしのことハブかんといて!」とか何とか言ってなぜか今はバンド全員で広い部屋に住んでいる。もちろん広いだけで建物自体は古いしエレベーターはないし壁も薄い。だからエナの部屋の隣である俺の部屋には毎朝エナの目覚まし時計が炸裂する。 今は何本かベースを持っている。そのどれもが地震で壊れたあのベースと似た色形をしていてしかも一本一本に特別な思い入れのある楽器たちで、それでも俺がこの人生で一番に買った楽器では有り得ない。どれだけ似ていてもあの楽器ではない。もうあの楽器は一生弾くことがない。 一人暮らし(くどいようだが実際は違うのだが)をはじめる代わりに両親に言われたのが、フリーターなんて不安定な生き方をしないで専門学校でも大学でも、まだ遅くないからちゃんとした生活をしなさい、だった。あまり家計に余裕のある家ではなかったが、俺の学費を出世払いで貸してくれるとも言った。俺は調律の専門学校を選んだ。 実家にはあまり帰らない。年に1回、正月だけは戻るように言われているが泊まることはなかった。結局、俺はまだ妹のことが怖い。しかも男みたいにさばけたエナを除き、女自体が恐怖の対象となってしまっている気がする。もちろん女が嫌いだなんてことはないが、やはりすぐ感情的になるところだとか思いつめるところだとか、そういった固有の性質が苦手だった。 いつかエナに過去を話したとき、あいつは小さな声で「好きだから抱いて欲しいって思うのは分かるよ、あたし」と標準語で言った。そのあとで「コジさんみたいなお兄ちゃんがいたとして、そこまで惚れるとは思わんけどね」と生意気なことを言って笑う。 エナが曰くは、クミは今頃後悔しているに違いないという。 そのとき俺は不覚にも、エナの言葉で泣かされてしまった。こんな小娘の前で泣いてたまるかとも思ったが、それ以上に「人を好きすぎて乱暴なことをする気持ちを分かった上で、妹の自責も分かってあげて欲しい」というようなことをもっと長い時間をかけて語ったエナの言葉は真摯だった。そして最終的にあいつは「今なら泣いていいんだよ?」とたどたどしく俺の頭を撫でた。 だから、ふいに糸が切れてしまった。誰が悪いなんて基準で測れる出来事でもなく、それでも俺にとって辛いことだったことは事実として存在し続けていて、エナはそれを認めてくれたから。 その晩、俺は新しい曲の詞の一部を書いた。 Let me cry With the word which you shout It is accepted even if it is sad to be happy Anyway, as for me be living here Only that is known, I want to know only that という英語詞の歌で、これは俺を泣かせたエナに対する敬意の表明でもある。エナは日本人の唄う英語詞の歌が好きだ。この詞は 「ぼくを泣かしてくれ 君の叫ぶことばで うれしいことが悲しいことであっても受け入れられる とにかくぼくは、ここに生きていること それを知っていないなら、それだけを知りたい」 という日本語の詞を俺の怪しい英語力で翻訳したものだ。 だいたいが俺の実体験に基づいて書かれている。上2行は言うまでもなく。下2行も人生の実感について俺なりの考えだ。問題の中1行だが――これは説明してしまうのが惜しい。家族の仲がいいのは「うれしいこと」だ。でもそれが「悲しいこと」と表裏一体だという真実を孕んでいても、結局のところいつか受け入れなくてはならない。 なんて。 エナと話していて思った。 今はまだ、すべてを受け入れられる状態じゃないけれど。それでもいつか俺は。 兄として家族として、妹に「おはよう」だとかなんでもない挨拶をしたいと思う。 今はまだ、でも。 俺のベースみたいに形のあるものは壊れたら戻せないかもしれない。それでも、人間と人間の関係なんて、どれだけ完膚なきまでに壊れても気の持ちようで元の形に戻せるものだと思うから。俺が望めば、そうすることもできると思うから。 だから。 だから、俺を泣かせて欲しい。 きみの言葉で。 うれしいことが悲しいことでも受け入れなくちゃならないのだから。 とりあえず俺は生きているということ。 まだ俺自身が生きていることに気づいていないなら、とにかく「俺は生きている」ということを知りたい。 過去も今も未来も、ぜんぶ乗り越えていくことが目標だから。 了 一言でもコメントいただければシリーズとして書く気力も湧きます。 ≪ □ ≫ |
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