一番つらいとき、俺が縋ったのは携帯電話だった。
 こんなちっぽけな機械ひとつで俺とあいつらが繋がっているってこと、それが何よりも温かくて安心でしかも恐ろしかった。だから、つらくて恐くて眠れないとき。俺はなにをするわけでもなく携帯電話を掴んだまま寝た。なんとなく温かい気がして、なんとなくあいつらがつまらない日常を壊してくれるような気がして。
 女々しいなぁ、なんて。今の俺が笑えるのは、あいつらと――トウヤとサエとは違う意味で、だけれど同じくらいに大切な仲間ができたから。

「桃。あるでしょ果物の。白桃とか黄桃とか。その桃に焼け野原の野。それで桃野。僕の名前」
 第一印象はハキハキしていてしっかりしていそうな(でも少し変な)奴、だった。
「トーヤ?」
「違う。トーヤって発音はダメ。僕はトウヤだから」
 必死に訂正をするトウヤを見て煙草の煙りを吐き出し、再びフィルターを咥えた不明瞭な声で俺は言った。
「トーヤ。なんかメシ奢ってくんねぇ?」
 一応言っておくと、俺は年中腹を空かせているわけではない。すべては台風で欠航になった飛行機が悪いのであって(というか天気が悪い)本来の予定ならすでに羽田に着いている時刻である。スケジュールが滞りなく進んでいれば今頃は同居中の女であるサエの作ったメシを食っていた。
 ちなみに所持金は羽田からアパートまでの交通費以外持っていない。全て航空券という名の紙1枚に消えた。
「なんで僕が」
 そりゃそうか。はじめて顔を合わせた他人に名を名乗った途端「メシ奢れ」などと言われては俺だってトウヤと同じ反応をしかねない。俺は無一文であることと腹が減っていることを説明した。煙草のディスアドバンテージは煙りで腹は満たされないという点に尽きる。
「金持ってないことと腹減ってるのは分かったよ。だけど、あんたの名前まだ分かんないんだけど」
 そういえば搭乗口前のベンチに座っているときトウヤがぶちまけた荷物を拾ってやってから何分か話しているが、なぜだか俺は自分の名を名乗っていなかった。
「新嶋」
「なにそれ、苗字?」
「新嶋幸高」
 とフルネームを名乗るとトウヤは「分かった」と頷き、立ちあがるとベンチに置いていた大きなバックパックを背負った。煙草を吹かす俺はぼんやりとトウヤを見あげ――
「ニイ。奢るよ。メシ」
 という言葉につられて席を立った。晴れていればすぐそばに旅客機の見えるはずの窓では、雨粒が風と共に平面にぶちあたり、見ているだけで痛くなるほどの際限ない自殺を繰り返していた。

「おかえり、ユキくん」
 サエが言い、ぎゅうと俺にしがみついてくる。
「ただいま」
 平然と言ったつもりがサエにはそっけなく聞こえたらしい。否、俺が認めたくないだけで「平然と言ったつもり」なだけであり本当は「そっけない」言い方をしたのだろう。サエはびくと肩をすくめてから俯いてかすかに潤んだ瞳で上目遣いに俺を見る。ただ面倒くさい奴だなと感じた以外に何の感情も動かなかった。
「なんだよ」
 何も考えず言い足してしまってから「あぁ本当に面倒なことになるな黙っておけばよかった」と平板に思った。サエは俺を見たままで口を開く。
「……なにか、あったの?」
「別になにもねぇけど」
 またそっけない言葉。
「だって、ユキくん……」
「あーごめん。俺、疲れてるから先寝るわ」
 賢明なサエはなぜ俺が疲れているのか訊ねなかった。
 起伏のない抑揚のない原野みたいに平和で刺激のないサエとの生活。
 起伏があり抑揚があり細波みたいに気侭で刺激のあるトウヤは今、どうしているだろうか。

 携帯電話を握る両手の人差し指を使って適当なリズムを打つ。サエに電話をすべきか悩んだが次の瞬間にはテレビでもラジオでも台風の情報が届いているはずだろうから、わざわざ俺が電話をして教えるまでもないかと判断した。
「ニイ寝れないの?」
 靴を脱ぎベンチの上に膝を立てて薄手の毛布に包まっていたトウヤが小声で訊ねてきた。窓の外は嵐と暗闇。未だ台風が通過中であり空港で過ごす夜だった。
「ガキか。俺は」
 俺の背中をぽんぽんと叩くトウヤに向って頬を歪めてみせ、するとトウヤはベンチの上でもぞもぞと動き体を俺に向けた。俺は片手だけを動かして煙草を取って、何回か擦りようやく火の点いたライターで先端を燃す。必要最低限の照明だけが照らす空港は夜の学校に忍びこむのと似た気分の昂揚があって、空港で足止めだと聞かされた直後に思ったより悪くなかった。
「僕も寝れない」
 去年入学したばかりの大学生で未成年すれすれの19歳だと自己紹介したトウヤがそういうから、つい俺は煙草を勧める。悪気はなかったのだが、トウヤと話していると不思議なことに自分と同い年かあるいは年上と話している気分になった。
「一本貰っていい?」
 トウヤに煙草を箱ごと手渡そうとかすかに体の向きを動かすと、女みたいに白くて繊細なしかし骨ばったトウヤの手が俺に伸びる。す、と俺が咥えていた煙草を唇から抜き取った。
「これでいいよ」
 にこと笑うトウヤに軽く舌打ちしてから、俺は新しい煙草を取り出そうと箱を握る。だがいくら引っくり返して振ってみても一本の煙草も出てくることはなかった。なんで手持ちに余裕がないときに人に勧めるんだと心の中で自分に嘆息をしてから、空き箱をぐしゃと丸めて屑篭に投げ込んだ。隣でトウヤが小さく咳き込む。
「お前なんか喘息とか持ってんじゃねぇだろうな?」
 ありえないと思いながら半眼で隣にいる男を見た。トウヤの手が自分の口から煙草を引き抜いて、妙に慣れて見える手つきで指と指に挟む。そいつは相変わらず俺のほうを向いていた。
「もってないよ。もってない」
 真面目な顔をしてはっきりと言う。あとで思い返せば、その言葉はトウヤが自分自身に言い聞かせていたのではないかという気がした。
 急にトウヤがベンチの上で膝立ちになり、1人掛けに区切られたベンチのアームレストに両手を(片手に煙草を持った両手だ)をついて俺に向って屈んだ。なにかが触れた。
「ごめんね」
 と笑う顔はどう好意的に見てやっても悪いとこれっぽっちも思っていない表情で、そいつはその後で何もなかったかのように平然と、それでもいくらか咽ながら煙草をふかす。俺はしばらく固まっていたが、やがてトウヤを理解することを諦めると別のことを考えた。
 唇で唇に触れるのは男と女にかぎり起りうる仕草だと思い、そしてその常識が崩れることはひどく不健康なことだと思っていたが、実際に目の前で我が身をもって常識が崩れてみればなんてことはない。温度とか柔らかさとか、そういう類の個人差は同性同士を比べても存在するのだからトウヤとサエを比べれば当然違いがあるが、しかし。
 男も女も大差ない。ただ、ひとりとひとりが近づけば触れ合う。それだけのことだった。
 ここでひとつの常が壊れたかと思うと、まるで初めて修学旅行に行った小学生みたいに落ち着かなくて、なかなか眠れなかった。黙って煙りを吐いていたトウヤが口を開く。
「やっぱいらない」
 ずいぶん短くなった煙草を俺につき返し、言い足した。
「僕まだ19だし。まともな分別も残ってないなんて、ちょっとヤバいね」
 俺が煙草を受け取ると、トウヤは自分の顔のそばで両手を合わせてから何度か擦り合わせ腕を組むように毛布にしまいこむと静かに目蓋を閉じた。照れ隠しとかそういう類の行動にはとても見えず、トウヤのする動きのひとつひとつが本気だった。本当に眠くなったらしい。
「おやすみ」
 こちらを見向きもせず言ったかと思うと寝息をたてる。そんなトウヤを横目に見ながら俺は浅い吐息を吐き出した。少しだけ、ほんの少しだけ眠るトウヤに触れてみたい(こいつは睫が女みたいに長いのだ)と思ったが、せっかく寝付かせた子供を起こしてしまうのは得策でない。俺は若干躊躇してから返された煙草を咥え、それからトウヤと同じように目蓋を伏せた。
 翌日、ようやく離陸できるようになった旅客機は他の乗客や荷物と共に俺とトウヤを乗せて羽田へ飛んだ。
 羽田空港、トウヤが俺の携帯を手にしている。
「なにしてんだ」
 聞くとトウヤは答えた。
「僕の電話番号とメールアドレス」
 答えるとトウヤは自分の携帯を取り出し両手に電話を持ちながらも、自分の携帯だけを操作する。
「なにしてんだ」
 まったく同じことをもう一度聞くとトウヤも前と同じように答えた。
「ニイの電話番号とメールアドレス」
 なるほど。勝手に電話帳を登録されているとか勝手に携帯の中身を見られているとかそんなことはどうでもよくて、ただトウヤらしいなと思った。
 そのうち会えるかもなと不親切な言葉を互いに残して俺とトウヤは自分たちのいるべき場所へ帰る。俺はサエの待つアパートへ、トウヤは――トウヤがどこに戻るべきなのかは聞いていないので知らなかった。
 バックパックをあさって部屋の鍵を取り出す。ついでに目に付いたので携帯を確認する。メールが一通届いていた。
 ――送信元:トウヤ
    本文 :僕がこれを書いているのはニイと別れた直後。
        僕の本名は、是枝桃野。はじめまして。
        本当にもっていなかったんだよ。
        本当に、ニイと“どうしたい”とかいう気持ちはなかった。
        きっと、ニイは僕のことを嫌いになるはずだ。
        男が男にキスしたんだから。
        だけど覚えておいて。僕は本気だった。
        変だって分かってるけど、あのときは本気だったんだ。
        今度も偶然に会えるのを待つよ。
        僕は明後日の午前10時にまた羽田へ行く。
        ニイさえよければ羽田で偶然に会おう。
 猫よりも気侭で刺激のあるトウヤ。
 これから平穏すぎる日々を刻むことが分かりきっている俺には充分すぎる魅力だった。
 気を落ち着けてから部屋のドアを開けると、サエが俺にしがみついてきた。

 午前10時、羽田空港。
 トウヤは子供や外人みたいに屈託なく俺を抱きしめる。傍から見れば友情の抱擁以外にないのだが、そのときの俺たちから見ればそれはそれ以上の意味もあったのかもしれない。男だとか女だとかじゃなく、俺はただ平穏をぶち壊してくれる人間として必要より過剰にトウヤを好いていたから。
 ふと頭をよぎった。
 俺がどう思っていようとトウヤは俺を慕ってくれていて、それは親愛の情とは少しだけ違って恋愛感情に近い痛々しい感情で。俺がどう思っていようと。俺がどう思っていようとサエに言わせればこれは立派な裏切りに違いない。立派な浮気として成立してしまうに違いない。
 すべてをクリアしてゼロからやり直しをする機会だと思った。
 細波に憧れながら原野との生活を営むことを全部“はじまる前”に戻すべきだ。
 ぱちりとバックスペースを押せば戻る、そんなものだ人生って。過去を輝かしいものと思わなければ、この先に期待をする必要もない。過去を憂えなければ、未来を憂える必要もない。そのまた逆も然り。未来に期待をしなければ、過去を輝かしいものとして神聖化する必要がない。未来を憂えることなければ、通り過ぎた過去を憂える必要がない。
 俺はトウヤと別れたあとでバイトに行き、その日はカプセルホテルに寝た。
 携帯を掴む。携帯を握る。サエとつながるはずの携帯を掴む。トウヤとつながるはずの携帯を握る。結局俺は中途半端なのだ。非の打ち所のないサエのような女を捕まえておいては男に靡き、トウヤに傾いてはサエを求める。
 俺はトウヤとサエに電話をかけた。内容は同じ。
 しばらく消えるから、別に死ぬとか失踪とかそういうわけじゃねぇけど探すなよ、大丈夫、頭冷やしたいだけだから。

 サエと家賃を2分していた頃とは違い、1人で暮らすにはとても金がかかる。その半年後、俺は1人あたりの家賃を削減するために探していた新しい同居人を意外に大勢見つけるのだが、そのときはまだ何も知らない。
 ただ、自分の中で決着がつくのを待ってる。時間をかけて、俺の中で何かが変わるのを、待ってる。
 死にそうにつらいとき、手に取るのは携帯。それでも握るだけで俺は携帯を使って人間と連絡を取らない。電話をしない。メールもしない。
 トウヤとサエが俺を忘れるならそれでいいと思う。悩む必要がなくなるから。最悪の逃避だ。
 ただ無心で打ち込めるのは、ドラムを叩くことだけだった。

 もしかしたら、とふいに思うときがある。もしからしたら、俺はまだ本当に人を好きになったことがないんじゃないかなんて、20代の男が思うには少しだけ間の抜けた疑問。でも、それがなんだろうとも思う。人が好きでも嫌いでも、製作過程で致命的な失敗をしたかと疑うように不完全なこの世界では、人と人は接しあうしか生き延びるすべがない。いつまで考えたって答えが出ずしかもループしてしまうような公式は存在するのだ。
 俺が後に出会った同居人たち。
 俺よりも若いユウトにユナミにコウジにエナは、ちゃんと自分が本当の意味で縋れる存在を知っている。本当の意味で「生きること」を理解している。不完全ながらも、俺よりは完全に。
 「まだ不完全な完全なもの」と一緒に生活していくのは毎日がひどく新鮮で、刺激的で、穏やかでもあり、安らぎもあった。
 いつか、俺が置き去りにしてしまった2人に連絡を取る日があれば。
 その日には――
 その日までには、未だ見つからない結論を探すしかないのだと思う。
 いつか、その日までには。




一言でもコメントいただければシリーズとして書く気力も湧きます。




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