何事もなく過ぎてゆく日々がわずかに崩れるためにはたくさんの要素が必要で、それでも偶然とはいとも簡単に“たくさんの要素”を収束させることができる。我が身を持ってそんなことを体験してしまうと、普段は開くこともない心理学について触れた本を開いて、人間が無意識下で繋がっていることを再確認したくなる。


 バイトの休憩中に電話がかかってきた。やけに慌てたそれはバンド仲間のコウジからで、俺は、あぁこいつ携帯を持ちながら右往左往してるんだろうな、なんて思いながら話をした。
「なんだよ、くだらない用事なら切るぞ」
 口から煙草を抜き取りながら言うと、おそらくコウジは携帯の向こう側で何度も左右に首を振っただろう。
「全然くだらなくなんかねぇっつーの! ユウトが倒れた!」
「……は?」
 と俺が思わず口にしたのも無理はない。なにせあの男は風邪ひとつ引かず“馬鹿は風邪をひかない”と以前熱を出したエナに八つ当たりされていたぐらいだ。どんなに咳をしている人間に近づいて一緒にいてもかすかな風邪の症状すら出ないし、ユナミ曰く熱を出したときにキスされてもユウトにはうつらない、らしいが――何してるんだあのバカップルは。
「いやマジだって! だから俺だってこんなビビってんじゃねぇか」
 コウジがチキンなのはいつものことだが、いくらか納得できた。
「事故とか……ヤバい怪我じゃねぇんだな?」
 “倒れた”という言葉からも分かりきったことだったが、コウジは混乱するとやや日本語が不自由になる傾向があるので一応訊いておく。今思えば、俺たちはそんなやつに作詞を任せていいのだろうか。今度、メンバー全員が揃ったときに議論提起してみよう。結局は結論の出ている議論に違いないのだが(日本語力はどうあれ俺らの曲には馬鹿みたいに前向きなコウジの言葉じゃないと駄目なのだ)、エナあたり面白いことを言いそうだ。
「……ニイさん、俺のこと馬鹿にしてるか?」
 お、正気だ。
「悪いな。……で、なんでアイツが倒れたんだ?」
 コウジは電話口で「否定しろよ」と小さな声で呟いてからことの説明をはじめた。
「たぶん風邪、だと思うんだけど……。熱がすごくて」
「今日部屋にいるのお前とユウトだけ?」
 2人がオフだっただけでも奇蹟だが、たいていの俺たちの部屋に一日中人がいるということはない。
「あぁ。でも、俺もすぐ学校行かないといけなくて」
「で、だからどうしよう、って俺に電話してきたわけか」
 本日エナは脅威のバイト3軒はしご。コウジは今から学校。俺、バイト中。
「ユナミに連絡してみたか?」
 ユウトが倒れたとあればクビになってでも家に戻りそうな彼女しかいない。
「したけど……そしたら“すぐ帰る”って言って電話切られちゃってさ……」
「あぁ、なら大丈夫だろ。ユナミなら絶対に帰る」
「でもそんな急に……」
 不思議そうにコウジが言うので、
「心配すんなよ」
 と答えると、
「……前からけっこう謎だったんだけど……なんでニイさんはユナミさんのことよく分かるわけ? 狙ってるなら諦めたほうが身のため――」
「んなことユウトに殺される。俺はそんな趣味はない」
「……だよな。じゃあなんで――」
「まぁコウジには分からない大人の事情があんだよ、気にすんな」
「馬鹿にしてるだろ。俺だってユナミさんと2歳差だし、ニイさんとだって3つしか年の差ないんだからな」
「ガキのケンカか」
「…………」
 無言の間を返しながらもコウジはまだ不満そうだったので、
「心配すんなよ」
 と同じ言葉をもう一度口にしてから電話を切った。

 3階の階段をのぼっているとき、コウジくんと会った。
「わ……マジで戻ってきた……」
 とかなんとか呟きつつ目を丸くするコウジくんに私は飛びつきそうなくらい距離を縮めて訊ねた。コウジくんは心持ち後退したような気がするけれど。
「ユウト、大丈夫? どうしてる?」
「無理やり風邪薬飲ませといたから、たぶん寝てると思う」
「……そう。ありがとね、コウジくん」
 どうにか口元あたりを微笑ませて答え、「いってらっしゃい」と2段抜かしで階段を駆けおりて行く彼を見送る。本当に遅刻ぎりぎりの時間まで部屋にいてくれたのだろう。コウジくんは子供っぽくて決断力があるとは言えないけれど優しい人だ。
 私は考えられる限りに急いで5階までのぼる。
 ドアを開けようとする。自然と郵便受けからはみ出た白い封筒に目がいった。手に取る。
「あ……」
 宛て名は東条悠兎。ユウトの名前。
 差出人は東条香林。ユウトの母親。
 香る林と書いて日本語読みだとコウリン、でもカオリと読ませているとユウトから聞いた。中国人の母親。
 内容は――決まっている。熱を出している彼に見せていいものか悩んだ。
「……治ったら、渡そう……かな」
 いずれにせよユウトにこの手紙を渡すのは気が重いけれど。
 ――別に。この手紙は……所有の証
 だと言ってあの日ユウトは疲れた顔で笑った。はじめてこの部屋に東条悠兎宛ての手紙が届いたあの日。私は「お母さん、どうかしたの?」なんて聞くんじゃなかったと後悔してから、事情も分からないのに「所有」なんて言葉を口にしたユウトが可哀想に思えてどうしようもなくて、ぎゅうと抱きつくように抱きしめてから唇で触れた。それ以外に何をしたらいいのか分からなかったから。
 鍵を挿して回してドアを開ける。焦るあまり気づかなかったけれど、何か買ってくればよかったと気が利かない自分をちょっとだけ呪った。とにかく靴を脱いでユウトの部屋に急ぐ。
「……寝てる……?」
 2人で並ぶには少し狭いベッドも、それに慣れれば1人には広すぎる。
 バッグを適当に床へ放り出してベッドの横に膝で立つ。いつもは意識していないけれど白すぎるユウトの肌。汗で額に張り付いた黒髪をそっと払った。
「……ユナミ?」
 起こしちゃった。
「うん。……ごめんね。起こしちゃった……」
「ん……へーき……」
 答えるとユウトは体を横に向け、両手を伸ばすと私を抱きしめた。キスをしようと顔を近づけると、
「だめ。お前うつるから」
 指先で口を塞がれた。きっとユウトは心の中で「俺だったらうつらないけど」言ったと思う。
 ユウトはいつもずるい。
 あの日の彼の言葉を借りれば、私のことを「所有」したがるくせに、私にはユウトを「所有」させてくれないから。でも私は慣れてる。一方的に所有してもらうことに慣れている。お互いがお互いを所有しあっているなんて甘すぎるし、ユウトはもう誰にも所有されたくないと心から願っている人だから。これでいい。
 私は何よりも彼が大好きで、愛して止まず、いくばくかの矛盾が生まれようとも私をこの世に産み落としてくれた両親に抱くものよりも強く、強く強く強く感謝しているという事実に変わりはない。どっちがどっちを所有したところで何も変化はない。
「うつらないわ」
 そっと笑んで顔を近づけ、彼の唇を舌先で舐めた。
「…………」
 ユウトは無言。熱のせいで赤い顔が余計に赤くなった気もするけれど、それはたぶん私の脳が勝手に見せた変化。彼がこれくらいで赤面するはずがない。
 ちょっと拗ねたような無言の間。彼は脱力して頭をベッドに置いた。
「……ユナミ、あれ……って」
 と言われて我に返ると、ユウトは私のバッグの横に置かれた白い封筒を見ていた。

 たどたどしい日本語で書かれた手紙。やけに漢字が上手く、簡体字を取り混ぜたその手紙の内容は決まっている。
 ――悠兎、早く帰ってきなさい。
    いいえ、帰ってくる、じゃないわ。早く戻ってきなさい。
    私、怒ってるわ。
    自分のペットに逃げられて怒らない人はいないでしょう?
    今なら許してあげる。早く帰ってきなさい。
    あなたは私のものなんだから、帰ってきなさい。
    私の命令なんだから、帰ってきなさい。
    こんなことになるなら悠兎なんて名前を付けなければよかった。
    兎なんて跳ねて飛び回ってはどこかへ行ってしまうもの。
    早く帰ってきて、私の悠兎。
 これだけを伝えたくてあの人は海を越えた島にまで手紙を寄越す。
 馬鹿だ。
 馬鹿だ。
 馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。
 絶対に馬鹿だ。
 こんなことを言うならあの日はなんだ。あの雷の日はなんだったんだ。あんな雷雨の日に、嵐の中に僕を家から追い出して二度と帰ってくるなと、死ねと叫んだ女は誰だった? 結局、一晩中雨に晒されて死んだみたいに倒れていた俺が公安に見つかって、家に連れ戻されれば警官に「この子ったら冗談を真に受けちゃって」なんて嘘をついたのは誰だ。馬鹿なのは僕か?
 人間の精神を覗けない以上、その口から出た言葉を信じるしかないだろう?
 その言葉が嘘だなんて、何を信じたらいい。
 母親がとある精神病に影響されていると知ったのは、その何週間か後だった。
 ことあるごとに僕を抱きしめて愛していると囁けば、ことあるごとに突き飛ばして殴りつけて死ねばいいと叫ぶ。たぶん僕は生まれつき丈夫でなければ今頃37回は死んでいる。年中流血していたからおそらく今でも血は足りていないし、餓死する寸前まで何も食えなかったことも少なくないからやはり今でも胃は小さいが。それでも僕は生きていた。
 なぜ生きているのかも分からず、それでも僕は生きていた。
 僕を発生させてすぐに死んだ父親の故国に逃げ出した。あの人は日本という国がどこにあるのかも知らない。
 そこで僕は、自分と正反対な彼女に出会った。
 愛されるはずの人間に忌み嫌われた僕と、二度と会えない男を愛し続ける彼女と。
 需要と供給が一致した。
 互いに愛してくれる人間と愛する人間が足りていなかった。
 最初はそれだけの話だった。
 今では、たくさん。たくさんのことがある。


 たぶんユナミがいない世界を生きることは苦痛だろう。
 コウジやエナやニイがいない世界もつまらないだろう。
 きっとこの部屋が僕の世界の全てになっても、僕は何も変わらず生きていける。


 何事もなく過ぎてゆく日々がわずかに崩れるためにはたくさんの要素が必要で、それでも偶然とはいとも簡単に“たくさんの要素”を収束させることができる。発熱と手紙と、もっとたくさんの要素を。我が身を持ってそんなことを体験してしまうと、普段は開くこともない心理学について触れた本を開いて、人間が無意識下で繋がっていることを再確認したくなる。
 たぶん、とりわけ親しい人間とは無意識ですらなく、もう存在の概念が繋がっている。そう思うことは、ひとつの理想論だろうか。それでも僕は、そう思う。

 本当はただ、熱を出して人恋しくなっただけなのかもしれない。
 でもそんな本音も存在していていい。そんな気がした。





一言でもコメントいただければシリーズとして書く気力も湧きます。




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