とある冬の日。 エナの父親が死んだ。 エナに母親はいない。 エナに兄弟はいない。 エナに祖父はいない。 エナに祖母はいない。 エナに叔父はいない。 エナに叔母はいない。 エナに伯父はいない。 エナに伯母はいない。 エナに従兄はいない。 エナに従弟はいない。 エナに従姉はいない。 エナに従妹はいない。 エナには誰もいない。 あいつが学校を辞めるきっかけになった事件を起こしたときも、黙って娘を迎えに来て、逆なでするようなことは一切言わず落ち着かせてくれたというエナの父親が死んだ。メディアでは芸能人の親が亡くなったりすると「最愛の父が云々」だとか「最愛の母が云々」だとか言うが、エナの場合は最愛という言葉で表現するより「最も尊敬すべき人物であった父が」という 文章のほうがまともに彼女の心を表しているに違いない。 練習用のスタジオに集まり、ちょうど音あわせを終えたとき。エナが敬愛して止まない唯一の邦楽ロックバンドの着うたが流れた。 「んー……せっかくイイとこやったのに。無視や、無視。はじめよ」 そんなことを平然と抜かすエナに、ユウトが言う。 「じゃ切れよ。うるさいから」 パイプ椅子に腰掛けていたユナミさんがくすりと笑い、 「切るくらいなら話したほうがいいんじゃない?」 エナの鞄の上でめまぐるしく明滅していた携帯を手にし、ユウトの言葉にむくれていたヴォーカリストに手渡す。眉を寄せるエナは「ユナミさんがそう言うなら……」とまだ不満そうな様子で、画面のある上半分が壊れてこっちに飛んできそうな力加減で携帯を開いた。ぴ、と通話ボタンを押す。 「もーしもーし」 と言ったきり、エナは固まった。 しばらくしてから、 「……はい」 ほとんどが掠れた呼気に隠れてしまうほどの声量で答え通話を終える。 「ごめん……行く」 現代の技術を駆使して軽量化の成された携帯電話さえ取り落としそうに危うげな手つきで携帯をジーンズのポケットにつっこみ、「行く」とだけ口にしたエナはドアに向かって歩き出す。鞄を持とうともせず。 「ってエナ! 手ぶらでどこ行くんだよ?」 慌てて追いついてから俺は冬でも薄着なエナの腕を掴み引き止める。足を止めたエナはしかし振り向こうとはせず「父親、癌で、倒れて、病院で」と言った。俺たちが黙っていると何秒か経ってからエナは「死んだって」と付け足す。腕を掴んでいる俺にはエナの体がかすかに震えているのが分かり、こいつが必死に冷静を保とうとしていることが理解できた。 「病院行くのか? エナ」 ニイさんが言い、彼女は頷く。 普段ならありえないくらいに重い沈黙。居心地の悪い静寂だった。 手を離すとエナは歩きはじめたので、俺は小さく言う。 「待てよ」 エナが足を止めたのが気配で分かったのでそっちを見ることはせず、俺は慌ててベースをユナミさんに渡すと、自分の財布と携帯とエナの鞄と2人分のコートを掴み彼女の傍に戻った。いきなり楽器を持たされ「……コウジくん?」とユナミさんが首を傾ぎ、俺はユナミさんだけじゃなくユウトとニイさんとエナの4人に向かって「ほっとけない」と告げる。 「ごめんユウト。俺のベース片付けて持って帰ってくんない?」 なにがあったのかは知らないが血のつながりを尊いものと思っていないらしいユウトは眉をひそめ、それでも低い声で「あぁ」と答えた。きっとユウトにとって血のつながりよりもユナミさんとのつながりが大切なものなんだと思う。願わくは俺たちとのつながりも。 どうにか歩くエナと、2人分の荷物を持った俺はスタジオを出て歩き地下鉄に乗る。 終始無言の静かな短い旅路はすぐに終わり、看護婦に案内されエナの父親が眠る病室の前へ連れてこられた。俺は震えるエナの頭を撫でる。 「俺、ここで待ってるから」 注意して見ていなければ分からないほど小さく頷いたエナは、ただの棒をくっつけたようにそっけない病室のノブに手をかけた。あとは右側へ動かせばいい話、でもそれだけのことができない時もある。エナの手は震えるだけで動かなかった。エナは強い人間のはずだ。 「冷たいな」 横から手を伸ばしドアノブを掴んで俺は言う。エナの顔を覗き込み、 「大丈夫か?」 問うと、電話がかかってきてからはじめてエナが俺を見あげた。 「……まだ、だいじょうぶ」 揺らぐ声で答えるので、ドアノブと同じくらい冷たいエナの手を励ますようにとんとんと軽く叩いて俺は自分の手をポケットに入れる。そう、エナは強い人間だ。 病室に入っていったエナを見送り俺は壁に背と後頭部をつける。いくら自分に「エナは強い人間だ」と言い聞かせても今は、それは安い嘘にならなれたが、少しでも真実に近い嘘にはなれなかった。どう見ても一緒にスタジオを出て、一緒に地下鉄に乗り、一緒に病院へ来たエナは頼りなく何の力もない人間だった。小さな人間だった。いつものように強いエナではなかった。 誰にでも起こりうる心臓を冷たくするような出来事を乗り越えられる人間が強い人間だと思うが、失うことさえ怯えてしまうくらいに大切で大きく重たいものを自分の世界に見つけられる人間が強い人間だ――とも思う。本当に強いのは無くなったら痛いほどの大切なものを持てることだ。無くなる・無くならない以前に、失うことに恐怖を感じながらも心に重く留めておけること自体が強い。恐怖に脅かされながら耐えていける心が強い。自分の恐怖と共生していける、そういう人間が強い。 しかし「たくさん」という言葉は厄介だ。 人よりたくさんのことを知る人間はそれらの知識が邪魔すぎて疲れる。 人よりたくさんのことを成せる人間は周囲から引っ張りだこで苦労する。 人よりたくさんの大切なものを持つ人間は人よりたくさんの喪失に悲しむ。 これが世の中の摂理だから。 でも、エナには父親しかいなかった。人よりたくさん大切な人がいたわけではなかった。ひとりだけだったにも関わらず、この世界に起きる物事の中枢を司っている誰かはエナから父親を奪った。少しだけ、ほんの少しだけその誰かに対象のない殺意を覚えた。 何日かあと。 毎朝のことで目覚まし時計の炸裂したあと俺はエナを起こしに行くと、ただでさえ小さな体を余計に小さく丸めて眠るエナの頬がまだ湿っていることに気づいた。つまり、眠ってからそう時間が経っていない。 壁にハンガーでかけられた黒服を横目で見やり、喪服として使える服を持っていなかったエナがユナミさんから借りたそれは、果たしてエナのサイズに合うのだろうかと呑気な心配をする。ユナミさんだってかなり細い(あくまで見た目だ。見た目)が、エナは夏痩せしてようやく元に戻った体重が、ここ数日で真夏よりも少なくなるほどにやつれていたから。それにユナミさんのほうが15センチくらい長身だ。 俺とユナミさんが並ぶとそう目だって身長差があるわけではないが、俺とエナが並ぶとエナの頭は俺の腋のあたりにある。20センチ程度の身長差。 さすがに引っ叩いて起こす気にはならず、肩をそっと叩いた。 「エナ、朝」 言うと、 「うん」 少しも寝ぼけていないはっきりとした声が返ってきた。 「寝れなかったのか?」 訊くと、 「心配せんでえぇよ」 かすかに笑むように表情筋を動かしたエナは答えた。拒絶されたかと思った。 今日はエナの父親の葬式の日だ。俺たちは手伝いをすることになっている。 妙な抑揚のついた読経の響く中、少しだけひらひらしたスカート姿のエナが泣き出した。 大声をあげて泣き出したエナの肩を支えながらユナミさんが部屋の外へ連れ出し、俺は2人を見送りながらエナが今回の件で涙を流したのははじめてだと気づき妙な気持ちになる。2人はまるで姉妹のように見えた。 ひとまず式が終わりニイさんはすすり泣くエナに声をかける。落ち着いた物腰と、か細く頼りない背中は対照的で今のエナに告げるには酷な話だが、ニイさんはエナにとって父親に近い存在のように思えた。 しばらくしてからユウトが珍しく雄弁になって、「俺、親父いたことないから亡くす気持ちも分かんないけど」と前置きしてから「お前見てると、それが悲しいんだってことは分かる」と付け足し「無理にでも笑って送ってやれば」と締め括った。エナは少しだけ泣き声のボリュームを落とし、摩擦で涙を蒸発させようとでもするように両目を擦る。あからさまな励ましも何も無いユウトの本心からの言葉と、ただそれを受け入れ納得するエナの2人は強いて言うのなら親友のような関係に近かった。 かつてないほど悲しむエナにかける言葉も見つけられない俺は、彼女に近づく口実さえ見つけられずに少し離れて見守るだけだった。俺とエナはどういった2人に見えるのだろう。他人? それとも喪主と参列者? 頭に冷たい感覚を得て我に返り、雪が舞い落ちてきたことと自分が意味のないことを考えていたことに気づく。エナとユナミさんは友達であるし、エナとニイさんだって、エナとユウトだって、エナと俺だって、同じバンドのメンバーという関係でしかありえないのに。ただそれだけの関係である俺たちがこうして葬式の日にエナといることだって、彼女の母親も姉妹も従兄弟も祖父も祖母も伯父も伯母もいなかったから、単なる人手不足でかり出されただけなのに。 それでも、それだけだと思うとどこかが痛かった。 俺にはかろうじて美しいものに見えるこの雪が、エナにはどう見えているのだろう。無意味に綺麗で儚くて、だからこそ八つ当たりのように憎いものだと思うのだろうか。だとしたらエナと同じ心で雪を見られない俺は、いったい何なんだろう。 部屋に帰った。その日、夜中に目が覚めた。なかなか眠れなかった。水でも飲もうと自分の部屋を出た。リビングに行った。ソファに人影があった。エナだった。 「……どうした?」 背中に声をかける。ソファの上で膝を立ててそこに顔をうずめるエナは何も言わない。俺はエナに聞こえないよう音のない嘆息をしてから台所でコップに水を注ぎ、何口か飲んでからシンクに捨てた。リビングに戻りエナの隣に座る。 「寝ないと明日に響くぞ……って、しばらくバイト休みなんだっけ?」 分かりきったことを訊く。エナは俺が学校に行く時間とバイト先に向かう時間が一致すれば俺の自転車の荷台に乗っていくから、前日に「明日乗っけて」と言ってくる。 「……あたし、独りだ……」 割れた声で小さく言うエナ。 もちろん隣に座る俺は聞き逃したりなんかせず黙って視線をエナに向けた。風呂に入ったまま濡れて放置されている長い髪。ヒーターも止められたこの部屋にいれば寒いだろう。その体は寒さで小刻みに揺れて。自分は独りだと弱弱しく言った声も揺らいでいて。 「大丈夫。独りじゃない。大丈夫」 ソファに座ったまま冷え切ったエナに腕を伸ばして胸に抱えて、何度でも「大丈夫」だと「独りじゃない」と言い聞かせた。俺の腕の中でエナは目を瞑り、濡れた髪の張りついた額を俺の肩に押しつけ、小さく洟をすすった。 しばらくして俺は「俺が……」と言いかけて思い直し、 「俺たちが、エナを独りにはさせない……から」 と決死の覚悟で言う。するとエナは小さく肩を震わせ、 「……きょじゃくが何か言っとるでー……」 と数日振りにほんの少しだけ楽しそうに笑いながら憎まれ口を叩く。いつもならムカつくだけのそれは、なぜだか俺にわずかな安心を与えた。 エナは何でも屋だ。 その言動ひとつひとつで俺に安心だとか心配だとか寂しさだとか冗談みたいな腹立たしさだとか、とにかく想像できるかぎりの感情を与えることができる。何でもくれる。 だから、俺はエナに独りきりになって欲しくない。 誰がいなくなっても、何がなくなっても、たとえ世界がなくなっても。 エナからなにが取りあげられても、俺はエナを独りにしたくない。 いくら虚弱だとか馬鹿にされても、俺はエナを独りにしたくない。 俺は俺なりにエナを思う。 あいつを独りにしたくないと、心底から思う。 悲しんでいたら傍にいてやりたいし、喜んでいたら一緒に笑ってやりたい。いくら手間がかかろうとも、どうしても朝が弱いアイツを起こしてやりたい。何かを――例えるなら真っ白な雪を見て、完全にとは言わないがほぼ同じことを思いたい。 いつか、そう言ってやりたい。 いつかエナに、思ったことを言ってやりたい。 いつに、とは言えないけれど。 とある冬の日。 エナの父親が死んだ。 エナに母親はいない。 エナに兄弟はいない。 エナに祖父はいない。 エナに祖母はいない。 エナに叔父はいない。 エナに叔母はいない。 エナに伯父はいない。 エナに伯母はいない。 エナに従兄はいない。 エナに従弟はいない。 エナに従姉はいない。 エナに従妹はいない。 エナは独りじゃない。 了 一言でもコメントいただければシリーズとして書く気力も湧きます。 ≪ □ ≫ |
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