誰もの様子がおかしい。しかしそれはとあるバンドのメンバーでシェアしている古びたアパートにおいて、ライブ当日の朝にはよく見られる光景で。そいつらの気が浮き立っていることとは別にして、小さなライブハウスの防火設備までも様子がおかしいようだ。
 その異変に気づいたのは、天井に据えられた"アレ"が暴走を終えてから最初にライブハウス内に入ったギタリストだった。
「……火事?」
 その惨状を目にして思わずとぼけたことを口にし、続いて他のメンバーが彼と同じようなことを呟き同じように硬直した頃。
「なんで水浸しなわけ」
 ようやくその状況を端的に言い表すことができた。水浸し。
「えー……ホンマに今日使えるんかな、これ」
 珍しくギターを背負ったヴォーカリストが、靴底で水を叩きながら客席へ踏み出す。そのあとをベーシストが追った。
「……なんで水……」
 呆然とする彼らを眺め、年長者のドラマーは天井にその原因を見つける。
「スプリンクラーじゃねぇの、あれ」
 彼が指差す先には、水を放出し尽してかすかな残滓を垂らすスプリンクラーの頭があった。ぽつ、ぽつ、と滴下する水は、水溜まりのできた床へ不規則に落下しては波紋を作る。
 もちろん対価を払ってライブハウスを借りた彼らにしてみれば、ライブ当日になって肝心の建物内がこんな状態では話にならない。中でも同じく腹を立てているはずの他のメンバーに「落ち着け」と宥められるほど激怒したヴォーカリストは事務室へ直訴しに行き、そして「ただスプリンクラーが故障しただけだから大丈夫、使えるでしょう」との返事を貰い余計に神経を逆撫でされて戻ってきた。


「どうすんねん、これ! びしょびしょやで」
 水溜りを蹴飛ばしながらエナが言い、飛沫にジーンズを濡らされたユウトはあからさまに顔をしかめ、だがエナの非建設的な発言を無視することに決めてニイに言った。
「いいんじゃね、別に。もう放水終わってるし」
 ニイは答える。
「確かにな。水浸しだろうが大した影響ねぇし」
 明らかなライブハウス管理者側のミスを「影響ないから別にいいや」で済まそうとする2人にエナはわざとらしく頬を膨らませ、それはもう八つ当たりぎみに、
「コジさんの虚弱っ」
 建設的でも非建設的なことを考えるでもなく、床が水びたしだと跳んだときお客さんに撥ねるかなぁ、なんて呑気に思っていたコウジに向かって床の水を蹴り飛ばした。

 両手にコンビニのビニール袋をぶらさげる影がふたつ。熱せられたアスファルトに伸びる。
「トウヤくん、平気? そっちのほうが重いでしょ」
 500ミリペットボトル入りのミネラルウォーターが4本入った袋を右手に、2リットル入りのペットボトルが2本入った袋を左手に歩くトウヤを見た。当のユナミは片手にニイから頼まれた「煙草」とエナの要望である「のど飴」だけが入った袋をぶらさげ歩く。
「大丈夫。僕、男の子だから」
 少しだけ汗をにじませながらトウヤは答え、ちら、と横目でユナミを見る。
「ユナミさんこそ平気? こんな暑い中、動き回って」
 軽い口調であったにも関わらず、トウヤの表情は妙に真面目で。そんなに最近の自分は体調が優れないように見えるのか、あるいはその他の要因があるのか、つかみどころのない彼の真意をちっとも量れずユナミは曖昧に笑んでうやむやにした。何も心配される理由なんかないから平気、という笑顔で。
 それは本当ではなかったけれど、この先、自分がどうなるかなんてユナミ自身にも分かっていないのだ。
「なんでもないわ」
 またひとつ、嘘をついた。
 きっと私は、その嘘で自分をも騙そうとしている――ユナミは自虐的に笑む。ある事柄のスタート地点がプラスでもマイナスでもない場所にあったとしても、期待を上乗せしてしまえば値は増え続けプラスになり、その期待が失われたときには当初はプラスマイナス・ゼロであった事さえマイナスに見えてしまう。人間はそういう生き物だ。
 私は、なんでもない。
 私は大丈夫。
 何度も心の中で自分に言い聞かせながらユナミは歩く。

「うーわー……ダメじゃん、コウジ。こんなところで水遊びしちゃ」
 がた、と扉を開けライブハウスの中に足を踏み入れたトウヤは一言目にそう言った。
「違う。俺らが来たら、なんかスプリンクラーがぶっ壊れて水ばら撒いてやがるから、ハコがこんなびしょ濡れになってんだよ! 誰がこんなとこで水遊びなんかするか」
 備え付けのモップで客席の水をふき取り、水が飽和してはバケツに絞り捨てていたコウジは怒鳴り返す。腹立ち紛れに荒く床へ戻したモップが撥ねを飛ばした。飛沫の被害を受けあからさまに顔をしかめるトウヤは「まぁ頑張ってね」と等閑な返事を返す。
「手伝えタダ飯食らい」
 出て行くときにまとめて世話になっただけの代金を置いていくつもりで、あくまで無一文を装い続けているトウヤにコウジは適当に言い捨てた。そして付け足す。
「あれ、お前、ユナミさんは?」
 一瞬だけどこか不安げな表情をつくり、即座にそれを打ち消してからトウヤは答えた。
「コウジまでユウトみたいなこと言うなよ。……トイレだって」
 そうか、とコウジはトウヤの瞬間的な表情から受けた違和を勘違いだと半ば無理に思い込む。かすかな違和を忘れると同時に、トウヤの言葉から受けた大きな違和に思い当たった。
「トイレって、今、ニイさんが……」

 指が頬に食い込むほどに強く、手で口を押さえる。平気だと思ったのだが、炎天下を歩くことは予想以上に体に堪えるらしい。ユナミはできるだけ人の目を避けながら――もちろんユウトの視界にも入らないように気を配りつつ、ライブハウスの舞台裏を早足に進む。
 こういうところ――それも観客用でなく裏方にあるトイレに限って男性用女性用が分かれていない場合が多い。比較的大きな場所であればそんなことはないのかもしれないが、ヘルキャットが使うライブハウスは、舞台と客席あわせて教室一つ分程度の広さしかない、とても小さなライブハウスだった。
「あれ、もしかして、ユトの彼女さん?」
 ライブを無償で手伝ってくれるスタッフ(つまるところ皆で集めた親切な友人たち)の一員である、コウジの専門学校での友人と紹介されていた男がユナミに気づく。ユナミは大半を手の平で隠した青い顔で彼を振り返った。
「え……どうしたんスか? なんか調子悪そうですけど」
 ユト呼びますか?と彼にしてみればただの心配からくる言葉をかける。すると、無口で何を考えているか分からないギタリストの、内面も外面も美人な彼女(特定の彼女がいない彼にとっては羨ましい限りだ)は掴みかかるほどの勢いで彼に詰め寄った。ユナミの意外な行動に彼は心持ち身を引きながら、今にも消え入りそうに弱々しい言葉を聞く。
「お願いだから、……誰にも、言わないで。ユウトには言わないで」
 今にも泣き出しそうな声に彼女の本気を感じ、彼は怪訝に思いながらも承知した。
「ありがとう……。本当になんでもないの。だから……絶対、絶対絶対、誰にも言わないで……お願い」
 そしてユナミは再び小さな手で自分の口を塞ぎ、トイレのドアを開け中に消えた。ライブスタッフの彼は首を捻りながら自分の仕事に戻る。ああまで体調が優れないのでは彼女が言ったのとは逆に、特にユウトには黙っておくべきでない気がしたが、彼女のような美人に涙目で哀願されれば、彼としてはそれを無碍にするわけにもいかなかった。
 ユナミは個室に誰かが入っていないかを確認する余裕もなく即座に洗面台の蛇口をひねり、今まで堪えていただけの嘔吐感を解消する。何度も繰り返し吐瀉していると鳩尾が痙攣しかかった。どこか慣れた動作で無意識に洗面台と顔を水で洗い、いくらかまともな思考が戻ってくるとバッグからタオルを出しておけばよかったと後悔しつつ、顎から水の滴る顔と手を持て余す。
 かた、と鍵の開く音。
「ユナミ……。なにしてんだ、お前」
 ニイが個室から出てくると、まだ水の出しっ放しになった洗面台に崩れるように凭れているユナミが目に入った。用を足したものの、途中で入ってきた人物が漏れる声を無理やりに抑えながら吐きはじめたものだから、出るに出られなくなっていた。暴いてはいけない現場に出くわしてしまった気がした。
「……あ……」
 悪戯を見つかった子供のように泣きそうな顔で、ユナミは短く口に出してしまった。
「やっぱり、か……。お前、隠してたつもりかも知んねぇけど、俺は"そう"じゃねぇかと薄々思ってた。……とりあえず顔拭け」
 首にかけていたタオルを渡され、しかしユナミはニイの言葉どおりにしなかった。自分でも制御できないくらいに自然すぎる涙が頬を伝う。完璧だと思っていた隠し事に気づかれていたことが、ユナミには衝撃的すぎた。誰にも知られてはいけないことだった。
「嫌……っ、違う、……違うの! 私、な……なんでも……ない。何も、隠してない……」
 ニイはユナミの否定で確信を深め、咥えていた煙草をもみ消す。
「誰も知らねぇよ。トウヤは気づいてそうだけど――ユウトは気づいてない。安心しろ」
 お前が泣いた顔してたら俺がユウトに殴られるだろうが、と冗談半分にユナミを宥め、ニイは彼女が落ち着いてきたのを見計らってから疑問を口にした。
「なんでユウトに言わない? ……あいつだって、そりゃ驚くとは思うけど、ユナミのこと分かってないような"変なこと"言うような奴じゃないだろ?」
 ユナミは再び瞳に涙を溜めながら小さな声で言い返す。
「だめ。まだ、私、普通の人みたいにできるか分からないから」
 ニイは嘆息をつく。
「……事情があんのは分かったけど。だけど体調悪そうにしてたらいつかバレるだろ、お前らいつも一緒に居んだから。そうなったら、なんて説明するつもりだ?」
「体調が悪いのは……昔の、倒れたときの後遺症、って」
「だから心配するな?」
 ユナミは頷く。
「……なら俺からユウトに言ったりはしねぇけど……。でも、ユウトのことも考えてやれ。自分の彼女がそんな大事なこと隠してるって知ったら――俺なら、そんなに信用されてねぇのかって思う。それに、たぶん……悲しい」
 目を見開くユナミに背を向け、ニイはトイレのドアに手をかけながら付け足す。
「ひとりで抱える問題じゃないだろ。いくらユナミが普通じゃない……ていうか」
 一度だけ言葉に詰まり、言いなおした。
「……普通に産めるか分からなくても、妊娠って、相手の男がいて成立する話だから」
 蛇口が水を垂れ流す音だけが満たすトイレに1人残され、ユナミは片手で自分の腹に触れた。

 ライブを開演して3曲目と4曲目の合間。
「――ていうわけで、今日は水浸しです! 本っ当ヤな話なんやけど、濡れたくないヒトは後ろで聞いてもらうってことで」
 客席から「えぇー」だとか「大丈夫だよー」だとか、何種類もの声が飛んでくる。
「ははっ。ホンマええねんか、濡れても? まぁ客席はコジさんがモップで水吸い取ったから平気やと思うんで、あたしらが水飛ばしたら全力で避けるか受けるかしたってください」
 観客はわぁという歓声だとか「コジありがとー」だとか「受けるよー」だとか、雑多な感想が打ち出される。ステージに立っている側はとりあえず笑い、静まってからエナはマイクに向かって囁くように告げた。
「濡れたらスマン」
 続いて曲名を囁く。
「Not Care A Brass Farthing」
 エナがストラップを長めに調節し肩にかけていたギターを無造作に鳴らし、ドラムがテンポをとってユウトの音とエナの音が混ざる。前奏を終え、エナが1フレーズを唄う。その後に再びマイクから離れ、ユウトのギターがひび割れた音を伸ばしているうちに照明が暗転した。ニイがスティックを打ち鳴らすのに合わせ破裂音のような力をもって3本の楽器が鳴り、そして曲に合わせてコウジとエナとユウトが跳び、着地と同時に水が跳ね、照明が点く。
大きな歓声があがった。

 ライブ終了後。
「そういえば、アイカちゃん来てくれたんかな」
 Tシャツに着替えたエナが裏口の扉を開けながら言う。誰も答えを持っていなかった。ライブハウス裏口の路地に何人かのファンの姿が見える。
「うわぁ、皆濡れてんなぁ。ホンマごめんなさい」
 目を丸くしながらエナが言い、彼女たちは妙に高いテンションを維持したままエナと言葉を交わす。飲み物だとかお菓子だとか、あるいはタオルだとかの差し入れをありがたく受け取り、ファンと別れるとライブハウスの正面道路に出た。
「お疲れさまです。今日、すごくよかった!」
 壁に凭れていたアイカが一行を見つけ、笑顔で駆け寄る。この状況に、口にこそしなかったがユウトとユナミは――実はコウジにエナ、ニイもだったが――はじまりの日を思い出した。特にユナミは何かしらの感情を抑えられなくなり、隣に立つユウトの手を握る。ユウトは驚いて横目でユナミを見おろしてから前に向き直り、そして、か細い手を握り返した。
「あ。これ差し入れです」
 手に持った白いビニール袋を差し出し、アイカは「ちゃんと花火持ってきましたよ」と告げる。優しく笑むその視線が一瞬だけ上目遣いにコウジを見た――本人たち以外はそれに気づかなかった。
「わ、ホンマやっ! コジさん、花火ー」
 とエナがコウジに向き、彼が微妙な表情をしていることに眉をひそめる。
「どうしたん? あー……虚弱やから体力残ってへんねんなぁ……」
 いつものように言うが、
「…………」
 コウジから何の反応も返って来ず、エナも少し戸惑う。なんとなく停滞しそうな雰囲気を読み、トウヤがコウジの背をつついた。
「コウジ、アイカが可愛いから照れてる? ……らしくなーい」
「ばっ……馬鹿かお前! だいたい、らしくなーいって何だ」
 今までの経験から考えると少しだけ会話に入るタイミングが遅れていたが、自分がぼうっとしていたことにも気づかずエナは、
「飢えてるんやねぇ、虚弱クンは」
 と話題を軽口で終わらせる。収集がつかなくなりそうな話題にニイが割って入り、彼らの後ろに立ったままユウトはユナミに囁くように声をかけた。
「ユナミ、顔色悪い」
 彼女は思わず慌ててしまってからユウトを見返し、だけれど言葉を見つけられなかった。
「もし倒れるなら俺の居るほう。掴まえてやれるから」
 彼はユナミがもう片方の手に持っていた大きなバッグを取りあげ、続いて何歩か前で騒ぐ誰にも気づかれない一瞬で軽く口吻けた。自分の行動に照れた彼は歩きはじめた一行の背中を真っ直ぐ見たまま黙り、しっかりと手をつないだ彼女が静かに涙をこらえていることに気づけなかった。
 ただ、不安と安心と申し訳なさと。すべて打ち明けたい気持ちと。でも、心的なショックで流産してしまった自分が普通に子供を産めるのか分からない、という事実を含んだ理性が。
 彼女の中で急激に膨れた衝動は、冷たい理性によって無理に押し込められていた。
 彼は彼女が何かを抱えていることに気づきながら、知らないふりをして彼女の言葉を待っていた。ライブハウスのスプリンクラーのように、無遠慮でさえ良いから彼女が心情を吐露してくれるまで。
 全幅の信頼でもって、本当のことを話してくれるまで。


 了

 なにかしらコメントいただけましたら、ラストへ向けて書く勇気がわきます。





 
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