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スプリンクラーのせいでびしょ濡れになったライブのあと、俺たちは川土手でアイカの差し入れてくれた花火を楽しんだ。俺たちの中の誰か――おそらくエナは相当に花火運がないらしく、途中で雨に降られた俺たちは慌てて部屋に駆け戻ることになったのだが、それが今の生活を破綻させる引き金になったのかもしれない。 あれから数日後、珍しく学校がない日を思い切り寝坊して過ごし、何かが欠けたような物足りなさを感じながらも俺が目を開けると、時刻は午後1時42分。ドア一枚隔てた居間がやけに静かだなと、意識方向をドアに向けはしたものの布団に転がったまま考える。あー……そういえば今日はトウヤもどこかに出かけると言っていた。職なし文なしのごく潰し学生のトウヤさえいないということは、今日、オフで部屋にいるのは俺だけなのだろう。 とりあえず顔洗おう。そのあとで何か食って、気が向いたらどこかに出かけよう。 もそもそと布団から這い出して自室を出、風呂場とトイレが詰め込まれた洗面所へ向かう。その間も、俺が立てる音以外は聞こえない。誰の気配を感じるでもない。 洗面所のドアを開ける。蛇口をひねる。フェイントをかけるようなタイムラグがあったあとで水が流れ出す。両手に水を掬う。顔にかける。それにしても顔を洗うとき、鼻から空気を出していないと鼻孔に水が入ってしまうのは俺だけなのだろうか。 そのとき。 「ちょっ……と……まさかコジさんっ!?」 まだ完全に覚醒しきらない頭でどこかから聞こえた声を解析し、今の状況が判明したとき。 俺はどんな冷水で顔を洗うより強烈に脳みそを覚醒させることができた。 「わっエナ!? なんで居んだお前!」 すりガラス一枚の向こう側は風呂場なわけで、エナの声はそこから聞こえたわけで。バスタブの中に人影が見えたので、顔を拭きながら慌てて背中を向けた。 「どっちの台詞や! ちゃんとドアのとこ使用中て札かけといたやんか! エロ虚弱!」 「誰がだっ! 誰もいないと思ってたから、札なんか見なかったんだよ!悪かったな!」 我ながらあまり悪かったとは思っていなさそうな勢いでまくしたて(心底悪いと思っているがエロ虚弱発言に反省の心を吹っ飛ばされた)、どたばたと洗面所を飛び出した。色々と見てはいけないものを見てしまったことは、俺が言わなければ誰にも知られないだろう。使用中の札をかけたからといって、圧倒的に野郎の多い部屋に同居している女が、洗面所と兼用の脱衣所に下着を放り出しておくほうが悪い。たぶん。 起きぬけに一日のやる気を殺がれ、布団の中で「顔洗って何か食ってどこか行こう」と考えていた計画は第一段階の「顔を洗う」までしか実行されなかった。リビングのソファにうつ伏せに倒れこみ、そのまま次の事件が起こるまで転がっていた。 次の事件は十数分後。インターホンからはじまった。 「……んだよ」 ささくれ立った気分のままソファから起きあがり、直す気力もない寝癖そのままの頭で玄関ドアを開けた。 「はー……い……って、……アイカちゃん?」 軽くパーマのかかった頭を俯け、ほっそりとした片手を口元に当て、ベースを背負った細い肩をかすかに震わせるその姿は女に疎い俺でも分かった。泣いていた。 「どうした? 今、俺しかいない……いや、エナもいるけど……。何かあった?」 どうせ俺はこんなことしか言えない。「ちょっと待って。エナ呼んできてやるから」と、子供をあやすつもりで彼女の頭をひと撫でした。そうして部屋に駆け込もうとした俺の手が、生暖かく濡れた手に引っ張られ――ぽすっ、と、漫画や小説では有り得ないほど間抜け音だけを立て、アイカちゃんに飛びつかれた俺は、彼女を胸にくっつけたまま倒れるように床に座り込んだ。 「いや、あの……あのさ、本当どうしたの? アイカちゃん?」 ある意味で俺には女難の相が出ているのだろうか。頭の半分を使って考え、残り半分でなんとなく過去を思い出しながら、さらに脳のどこかで俺はどうしたらいいのだろうと現実的なことを考えていた。一番重要なことを真剣に考えられなかった。女から飛びついてくるとか、そういった強引なシチュエーションに俺は弱い。弱いなんていう言葉では甘すぎるほど、俺は切り捨てたはずの過去に未だ振り回されていた。 「コ……ジ、あたし……」 なにかが壊れたみたいに涙の粒を落としながら、アイカちゃんは俺に伝えようとした。それでも乱れた服の隙間から見える肌には赤い痣(と言っていいのだろうかこれは。包まずに言ってしまえば恐らくキスマークだ)が何ヶ所か確認でき、だいたい彼女の話の先は見えた気がした。 「……誰かに乱暴された?」 できるだけ落ち着いた大人の声を出し、アイカちゃんを落ち着かせようとする。しかし俺はその裏側で、そういう時って男すべてに嫌悪を感じるんじゃないのかと、躊躇なく俺に飛びついてきた彼女を訝った。少なくとも俺は、今でも女に対する苦手意識のようなものがある。 「バンド……の、……メンバー」 その台詞で俺は声を失くした。彼女を否定する意味の言葉でなく、彼女のバンドのメンバーを否定する意味で「ありえねぇ」とだけ思った。俺は意識の上辺で「なんて奴?」と訊いたが、それに対する返事を聞いた後は声どころではなく感想まで失くすことになる。 「……みんな」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ アイカちゃんをそっと抱いて頭を撫でたまま、しばらく俺の全機能が止まっていた。どうにか機能を取り戻した俺がはじめに思ったのは――なんで人間と人間のつながりで溢れているはずの"世界"は、俺たちに優しいものだけを見せてくれないんだろう――なんでヒトには裏と表があって、どうして俺たちはヒトの両側を知ってしまわなくてはならないんだろう――なんで俺たちは"こんな世界"で生きるために傷つかなきゃいけないんだろう――そんな疑問ばかりだった。 無条件に信じていた人間に裏切られた――裏切られるという言葉が主観から見たものであっても、無条件に信じていた人間に裏切られる気持ちは痛いほど分かる。ただ、歪んだものであっても相手方に愛情があった俺の場合とは違い、きっとアイカちゃんの場合は相手方に衝動しかない裏切りなのだと思うと、不思議なことに俺も涙が流れた。紛れもなく単なる同情からくる雫で、俺が泣くのは完全なお門違いというやつだ。 「ごめ……っ、何で俺……」 アイカちゃんの頭を撫でていた手で自分の口を塞ぎ、しゃくりあげそうになっている自分を堪える。指の上を涙が滑り、俺の脚に転げ落ちた。 例えば今の俺みたいに馬鹿みたいに泣き出すだとか。自分でもわけが分からないことなんて、腐るほどある。でも俺は、それが理性と感情の合間から生まれるものなのだと、そのとき知った。同情で泣くなんて、彼女に失礼じゃないか――なんていう理性と。こんな目に遭うなんて、なんて可哀想なんだ――とかいう安い感情論と。 「……コウジ?」 俺を見あげるアイカちゃんの襟元からは、あの痣が見えて。 「ごめん。なんか……俺が泣いたりして。本当につらいのは、アイカちゃんで――」 思ったことを全て吐き出そうとしても、そんな暇もなく再び涙がこぼれそうで。 「いまは、安心していいから」 きっと、妹とのことがあったとき、自分が誰かに言って欲しかったんだろう言葉を彼女にあげた。 信じていたものに裏切られてしまうと、何を信じていいのか分からなくなるから。たぶん簡単に信じろと言っても、その言葉は頼りなく響いて消えてしまうから。だから、今は安心していいよ、と言って欲しいんだ。信じる信じないの問題よりも、安心できるか安心できないかの問題には膨大な許容量がある。 彼女は両腕を俺の首に回した。 「ア……アイカちゃん?」 安心しろだとか大言壮語を吐いてみても、やはりダメなものはダメ。過去というものはなかなか克服できそうにない。 するとアイカちゃんは顔をあげ、俺を見て―― 「アイカでいい」 紡いだ彼女の唇が近づいて、 俺に触れた。 そのときに聞こえた物音は、第三の事件の引き金で、たぶん、俺たち全員の破綻のはじまりだった。 突然の口づけ。慌てた俺はなにかを誤魔化すように物音のしたほうを振り返る。たぶん俺が焦っていた意味を正確に理解していたのは俺だけで、ふたりの女は俺が何を思って背後を振り返ったのかなんて少しも理解していないだろう。それぞれの主観で見れば、それぞれの解釈が得られる俺の行動が拙かった。 エナは、いちゃついている場面を見られた俺が慌てているのだと解釈しただろう。 アイカは、自分が急な行動に出たから俺が慌てたのだと解釈しただろう。 俺は、そんなつもりじゃなかった。どっちでもなかった。状況に流されて、これ以上の過ちを犯したくなかったのに――そんなことしたくなかったのに、いつのまにか力のない女みたいに唇を奪われている自分に慌てたんだ。また、あのときみたいに、変なことになりはしないかと。 「……あ……、……ごめん……」 はじめに声を出したのはエナで。 「ごめん。あたし……その、別に覗いてたとか、そういうわけじゃ……ないんだけど」 エナの足元に転がる化粧水のボトル。おそらくエナは風呂場から出てくるときそれを手にしていたはずで――なんで転がってるんだ。なんで落としたんだ? 「あの……邪魔、しちゃった、よね……?」 へらりとエナの表面に現われる崩れた笑顔。なんで笑えない。いつもだったら俺のことからかって馬鹿にして――なんでそうしない? 俺をからかう代わりにこっちへ向かって足早に部屋を横切るエナは、濡れた髪にぎこちない素顔のまま俺とアイカの脇をすり抜けて、そのついでに裸足の爪先にスニーカーを引っかけて。玄関のドアを開けて、通路に出て。崩れた笑顔がさらに崩れた妙な無表情で俺を振り返って。 「…………」 物言いたげな眼で俺を見て、一回だけ開いた口をきつく閉じて、 エナは行ってしまった。 俺の頭には咄嗟に追いかけるなんて選択肢は浮かばず、何も考えられないまま視線を巡らすうちに、いつの間にか離れたところに崩れるように座り込んでいたアイカと目が合った。 「ごめん………コウジ。私のせいでエナに変な誤解……」 アイカは言うが、俺とエナの間にバンド仲間や同居人という以上の関係なんて――心はその続きを紡がなかったが、俺の喉は躊躇いなくその続きを発した。 「別に……俺とエナ、そんなんじゃな――」 「やめて」 はっきりとした意思の溢れる声に台詞を遮られ、俺は黙ってアイカの言葉が続くのを待った。その先に続く言葉なんて想像もできなかったから、彼女を制する理由も彼女を促す理由もなかった。だから黙って待った。 ほんの数秒の沈黙。もしかするとその静寂は何分も続いていたのかもしれない。 「私は、……私はコウジが好きなの。……どうしようもないくらい、コウジが好きなの……!」 声の勢いは立ち消え、しかし震える声は続く。 「……だから、私は……コウジに幸せになってほしいんだよ……? ……だから私、絶対にコウジに自分の気持ち……言わないって決めたんだから……」 俺は何も言えず黙る。アイカは俺と一緒に少しだけ黙り濡れた苦笑を漏らすと、続けた。 「コウジは、気づいてないんだね。はっきり、気づいてないんだね」 アイカは何を言おうとしているんだ。俺が何に気づいていないというのか。 「私、気づいてたよ。ヘルキャットに会う前から、ひとりのファンとしてライブに行ってたときから気づいてた。ずっとコウジのこと、見てたから」 どうせ応えてやれないから、痛いから、そういうことを言うのはやめて欲しい。 「コウジはエナのこと、自分よりも大切なんだよ」 一瞬の空白。次が決定打だった。 「コウジはエナが大好きなんだよ」 もちろん女の子としてだよ? 私、コウジに幸せになって欲しいって言ったでしょ。それなのに私のせいでコウジまでエナに誤解されて……ごめんね。ごめん。本当にごめんなさい―― アイカは続けて何事か喋っていたが、俺の耳には入らなかった。 俺がエナに惚れてる? いつも俺のこと虚弱って馬鹿にして、生意気で、寝起きが悪くて、無理やりチャリの荷台に便乗してきて、俺のメロンパン食うし、だけど本当は弱い奴で、俺を泣かしてくれて、独りきりにさせたくないって思えて、同じことを思いながら雪を見たいって―― あぁ、俺、エナに嵌ってたんだ。 やたらクリアな頭で、そう思った。 俺が呆然としていると、アイカは再び潤みだした瞳を隠し、 「落ち着いたら、みんなに会いに来るね。……さよなら」 と、だけ言い残してどこかへ消えた。エナのように、どこかへ消えた。 急に、俺の周りにヒトがいなくなった。誰もいなくなった。 なんだって俺なんかに恋愛感情を持ってしまうんだ、と、妹やアイカを問い詰めてみたい。俺は、そういう方角に向いた好意は欲しくないのに、なんで。もっといい男なんて、吐いて捨てるほど――はっきり言ってしまえば、俺以外の男は全員「俺よりいい男」なのに、なんで、なんで俺なんか。 ずっとそう思っていた。 だけれど今の俺は、ひとつのことに気づいて。自分はエナに惚れているんだ、ということに気づいて、恋愛に対して否定的な態度を取れなくなってしまった。だから、すべてを俺以外のもののせいにして僻むのはやめた。誰かに惚れるのに理由も正気もないってこと、少しだけ理解できたから。 エナ。今、俺、お前に会いたい。 誤解を解きたい。よく分からないけど謝りたい。もっと分からないけど、抱きしめたい――エナはちっちゃいから、俺は支えてやりたいんだ。 その日、ニイさんにトウヤにユウトにユナミさんは帰ってきたが、次の日になってもエナは帰ってこなかった。 誰もがエナの家出に慌て、彼女が落とした化粧水のボトルは床に落ちたままだった。 了 ≪ □≫ |
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