なんでもない私とあなたを定義する言葉って、なんだろう。
 なんだろう。
 なんだろう、って考え続けて、結局は答えを出すこと自体諦めてしまった。私のなかでしか生きられなかった私を、外に連れ出してくれたのがあなただったから。誘拐犯?なんて、笑っちゃうくらい可笑しな答えしか出なかった。
 でも、監禁されて――その場から誘拐犯が居なくなっちゃったとき。被害者は言いようのない孤独に駆られるの。でも、あなたはきっと、そんなことは知らない。

   * * * 

 私たちの寝室にはカーテンがない。かわりに、ちっとも可憐にはためいたりはしないブラインドが吊られてる。その隙間は常に全開。暗い部屋で独りにならないように、って、あなたが決めたこと。「一日のはじまりなら、朝日が射す。僕の帰らない夜なら、朔月でないかぎり月光が射すから」私は最初、やたら詩的なあなたの言動が笑えた。
 暗い部屋、月光が射し込むなかに私は足を踏み入れる。両手で包んだ黄檗色(きはだいろ)のマグカップはホットミルクで満たされている。ミルクと同じ色の湯気がゆるゆるとのぼっている。
 今日、誘拐犯ことあなたはここへ帰らない。夜勤と言っていたけれど、あまり興味はない。あなたが職場で何人の命を救おうとも、今夜の私を救ってくれるわけじゃないんだ。睡眠導入剤はあなたが全部トイレに流してしまったし、あなたの声を聞こうと病院に電話をかけてもいつかは切られてしまう。もう薬をたくさん飲んだりしないのに、その点で私の信用は地獄に落ちている。
 私がベッドに腰をおろすと、ぎっ、と小さく軋んだ。キッチンで入れてきたホットミルクには手をつけず、あなたの買ってきてくれたマグを床に置く。
 なんの秩序もなくベッドルームの床に並べられた、睡眠導入剤の空き箱。電話の子機。ラベンダーのアロマオイル。アイマスク。そしてマグカップ――なんでだろう。薬以外は、すべて私を想ってあなたが買ってきてくれたものばかり床に転がっているのに、充分満たされているのに、私は眠れない。
 私は、あなたの声と腕がなければ満足に眠ることも出来ない。早く帰ってくればいいのに。早く明日になればいいのに。あなたの実体がここにないと、私はあなたの気持ちも信じることが出来ない。早く信じさせてほしい。早く私の目を塞いでほしい。
 ひとりきりでベッドの上に丸くなる。窓を見る。満月には何日か早い。
 意識は覚醒しているけれど目を閉じた。

   * * *

 あなたは、はじめて会った瞬間から変わった人だった。私は患者。薬物の過剰摂取で救急車に乗って病院へ現われた。あのころは、なにもしがらみがなかったから、自分の思うように自分の行動を決められた。
 具体的にどんな手当てをされたのかは知らない。あなたが医師としての必要以上に話したがらない。
 私はなんだか生きていて、主治医があなたになって、退院するときに「あなたがいないと生きられない」なんてふざけたら、あなたは「じゃあ時間が空いているときに僕と会おう」なんて真面目に応えた。いつのまにかそれは本当になっていて、ふざけていたとはいえ私から誘ったのに、あなたと会うとき、私はいつも不機嫌だった。
 本当は、冗談にも真剣に応えてしまうあなたが面白くて仕方なかった。本当は、あなたの話のすべてが目新しくて可笑しかった。本当は、あなたと会うのがなにより楽しみだった。本当は、あなたに会いたくて仕方なかった。本当は……――だけれど、本当のことを認めるのはとっても勇気がいるのだと。私はあなたと会うことでそれを知った。
 私は私のなかでだけ自由自在に動き回れたのだから、私の外に出てしまうとどうなるか分からなくて恐かった。だから、私をあなたに与えることができなかった。
 何年のあいだ、そうして生きた? あなたは覚えている?
 ――4年。それだけの時間を、休日を、あなたは私に費やした。
 どっぷり浸って、あなたのいる生活に爪先から脳天まで浸って、そんな私がなにを怯えられるだろう。気づけば、私のほとんどをあなたに与えてしまっていたのに。

   * * *

 あなたの肌とか、髪とか、声とか、においとか、姿、仕草、考え方、温度。ぜんぶ、ぜんぶ私のなかに仕舞いこまれている。どこの引き出しにあなたの何が入っているか、分からなくなることが多いけれど――だけれど不便ではないから。こんな夜でなければ、本物のあなたがいるはずだから。
 あなたが居ない場所じゃ、生きられない。空白の時間は延びるたび、私に圧し掛かる痛みを増やしていくだけ。こんな状況から救い出せるのは、あなただけなのに。あなただけなんだから、早く帰ってきて。
 目を開ける。
 ブラインドに刻まれた月は、あなたの居ない私を浮き立たせるような、冷たい月光を放っていた。





 ※注・黄檗→ミカン科の落葉高木。黄檗で染めた色を黄檗色という。■黄檗色■

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