公園の入り口に人影。顔を向ける。髪が視界を邪魔したから耳にかける。晴れた視界で確認。あなたじゃない。

   * * *

 きっかけは、なんでもないことだった。昨日は私たちが飼っているフレンチ・ブルドックの綱吉が家に来て一年の記念日。絶対に今日中に帰ってきてね、って――そうするよ、って――言ってくれたのに。言ってくれたのに、あなたは今朝になるまで帰ってこなかった。
 綱吉じゃなくて、私の誕生日だったとしても、あなたは帰ってこなかったんでしょう?
 そう、訊いてみた。否定して、言い訳してほしかった。
 昨日は急に面倒な仕事を押し付けられちゃったんだ、僕だって早く帰りたかったのに。きみの誕生日でも、綱吉の誕生日でも、どっちだとしても帰りたかったよ。
 こんなこと、あなたが言うはずなかった。いくら帰りたいと思っていたとしても、理由が浮ついたものじゃなくて仕事でも、それでも私たちを失望させたことには変わりないから――そういう考え方する人、だから。
 それで私たちは喧嘩をした。喧嘩なんて呼べるものじゃないことは分かっているけど、そう呼ぶほかに、私たちの間に起きた事件を表す言葉を私は知らない。ただ私が一方的に文句を言いつのった。あなただって悲しいのは知っていたけど、私はあなたみたいに悲しさを制御できなくて、嫌な八つ当たり。
 ちゃんと約束したじゃない。約束したのに、それを破るなんて最低だわ。私、ずっと待ってたのよ。あなたが帰ってくるの、寝たりせずに待ってた。なんで約束破るの。
 あなたは、私のことなんて何とも思ってないのね。
 すき放題怒鳴る私に、あなたは何も反論しなかった。
 ただ、最後の言葉にだけ――
 それは違う。
 って、静かな声で言った。
 だから私はその場で泣き出して、引き寄せようとするあなたの腕を振り切って、咄嗟にあなたのスニーカーを爪先に引っ掛けて家を出てきてしまった。それから行くあてもなくて、綱吉と散歩しているときに見つけた公園に逃げ込んだ。今度、あなたにも教えてあげる――なんて言っていた場所だから、もちろんあなたはこの公園を知らない。
 私が八つ当たりをしてあなたを傷つけたのに、なぜなのか泣いてしまったのは私で。私が何を言っても、あなたは何とも思わないんだって分かってしまった。何を言われても気にならないほど、あなたにとって私はなんでもない存在なんだって知った。それでも私は、まだまだあなたが大好きで、だから喧嘩の最後に聞いた「それは違う」って言葉が全身に浸透してしまって、そのせいで体の容量を超えて涙があふれたんだと思う。
 私、どうしたらいい?
 ベンチの上で膝を立て、そこに顔を埋めた。

   * * *

 ねぇ、あなた、本当に私に色々と言われて、痛くなかったの?

 ここは嘘をつくところ。痛かったよ、って言って。

 幼稚園に通っていた頃なら、世界は私の思うままに転がった。

 不愉快なことがあっても、思う存分泣くことができた。

 いつからだろう、世界が私の手から遠くはなれたところで転がりはじめたのは。

   * * *

 顔をあげると、そこはもう公園じゃなかった。私は誰かの背に負われている。
「僕の知らない場所に行くから、迎えに行くの遅れちゃったじゃないか」
 大好きな声。心地よく耳から全身に染み渡る。私は声が出せなかった。かすかに香るのは汗のにおい。あなたの体は熱くて、肩で息をしている。
「……ごめんね」
 ううん。私が悪かったみたい。でも、違うことを言って?
「もう出て行かないでほしい。ずっと心配だった」
 ごめんね。心配、ありがとう。でも、私が聞きたい言葉は――
 ころりと私の左足からあなたのスニーカーが落ちた。あなたは立ち止まり、私を背負ったまま方向転換をする。私は片足で地面におろされたけれど、しゃがみこむあなたが支えてくれた。
 あなたは靴を拾い、私の足をその中に入れさせる。あなたは俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「僕がきみを何とも思ってないとか、二度と言わないで。……悲しくなるから」
 まるで私の幻聴だったみたいに、あなたは何でもない顔で立ちあがって、また私を背負うから――
 望んでいた言葉が嬉しくて、嬉しすぎて痛みさえ感じて、また私は、泣いていた。








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