苦手な日本史の授業、先生に指された。私はせめて得意な化学だったら、まだ声を出すことくらいできたかもしれないのに、と思う。指されたにも関わらず、私はただ泣き出しそうな顔で黙って立っていた。早く、分からないなら分からないなりに反応しろ――先生はそう思っている。確か、この先生は教育実習生で、今日が研究授業だった気がする。 あぁ、私のせいで、この人、いい点取れないんだろうな。 なんとか喋らなくちゃいけないのに、私の舌はたぶん根っこが生えて口の中に固定されてしまったに違いない。どうしよう、このままじゃ、また平穏を壊してしまう。 「里村さん、蘇我蝦夷の子供だよ? 本当に分からない?」 声をかけないで。そうすると視線が集まって――ほら、私、首を振ることもできない。 その日、それまでずっと優しい教育実習生だった先生の仮面が取れてしまった。私のせいだ。 * * * 夜になる。自室にこもる。どうせ今日の出来事が蘇ってしまって眠れやしないのだから、最初からベッドに入らず、膝を抱えて床に座り込む。 またやってしまった。 誰だって、うまく喋れない私にいらついている。でも、それが見えてしまうから私は余計に喋れなくなる。そのうちに動けなくなる。だから、皆、怒りを押し隠すことも忘れて私を怒鳴りつける。つまり、私が仮面を剥いでしまうということ。 私が人の心を覗けるようになったのは、1ヶ月前。普通に面と向かって話しているだけ、話しかけられただけで、相手の考えていることが鎖骨のあたりから浮き出て、文字として見えてしまう。好きでこんな人間離れした人間になったわけじゃないのに、誰にもそんなことは言えなかった。朝起きたら、こうなっていた。それだけ。 誰の考えることだって見えるのに、上手く立ち回ることだって簡単にできるはずなのに、私は人が心の中に封じ込めている言葉が恐くて恐くて、誰とも話せなくなってしまった。もしもこれが漫画なら、こういうときに心に淀みのない同級生が現われて――なんて都合のいい展開になるのだろうけど、これは漫画じゃない。私が今、現実に生きている人生だった。 それにしても、私はいつの間に誰とも話せないような弱い人間に堕ちたのだろう。 1ヶ月より以前、私は「なんで皆、人を傷つける言葉を口にするんだろう」と思っていた。だけれどそれは大間違いで、普通の人が普通に暮らす上で、人間という生き物は心の中にあるヘドロの、ほんの上澄みしか吐き出していない。あんな言葉くらい、なんともない言葉だった。 * * * 次の日の朝のニュース番組。誰もが憧れるような完璧な笑顔で原稿を読む美人アナウンサーは、スペースシャトルの打ち上げ延期なんてどうでもいいと思いながら、スペースシャトルの打ち上げ延期について原稿を読んでいた。スポーツコーナー担当の格好いい男性アナウンサーは、どこの球団の監督がシーズンの途中で代わろうとどうでもいいと思いながら、監督の途中交代について原稿を読んでいた。 地方との中継があるコーナー。地元の小学校低学年の子供たちを集めて、その街で行われるお祭りについて報道している。だけれど地方の放送局の少し垢抜けない女性アナウンサーは、打ち合わせどおりに動かない子供たちを心の中で罵りながら笑んでいた。 テレビを消した。 * * * なんで、誰かの心になんらかの影響を与えられるわけでもないのに、私にだけ他人の考えが見えるのだろう――そんなことを考えながら自転車を漕いでいたら、とっくに始業時間が過ぎていた。最悪だ。遅刻なんてしてしまったら、たくさんの人に色んなことを思われる。 私の進む先に、フェンスとフェンスに引っかかった風船と小さな子供が見えた。 泣いていたので何も考えずに声をかけた。風船を取って欲しいと言われた。私にはなんでもない高さだったので、すぐに取ってあげた。女の子は満面の笑顔で―― 「ありがと、おねえちゃん」 と言う。目を反らすわけにもいかなくて少女を見ると、その心の中でも同じ言葉を思い浮かべていた。 「……どういたしまして」 小さな声で、言うことができた。 * * * たぶんあれは、あの子がまだ幼かったから。汚い言葉も知らないし、純粋で素直だったから。それだけの話だと思った。だけれど、裏表がない言葉は気持ちがよくて―― そこで私は気づいた。 誰だって、常に心の底に毒を湛えているわけではない。私はそれが見えてしまったから、余計に気になってしまっていただけだ、と。それでも気にしないようにするには、私は弱くなりすぎていて。 驚いたことに、この1ヶ月間ではじめて、 私は、少しだけ泣いた。 了 ≪□≫ |