はじめて意識を手に入れたのは、いつだったろう。覚えていないほど昔の話だけれど、よく考えてみれば何十年も昔ではない、つい最近の昔。 * * * 私、そろそろ捨てられるのかな。亜樹の部屋から徐々にぬいぐるみやお人形が消え、玩具の口紅と代わってリップグロスが置かれるようになった頃。壁に貼られていた、亜樹が小学生のとき校内で銀賞を貰った水彩画が、はがされて壁紙の四角い焼け残りになった、あの頃。 私、そろそろ捨てられるのかな。亜樹の母親が若い頃にフランス旅行したとき、なんとなく買ってしまったビスクドール。まだ幼稚園に通っていた亜樹が母にせがんで、結果として亜樹に譲られた私。少しだけ大人びた顔をするようになった亜樹の部屋の隅に置かれている私。 私はフランスのとある小さなお人形屋さんで、夜、悪魔にさらわれる女の子だった。店主のおじいさんは私みたいなビスクドールの職人さんで、ある日、醜くて綺麗な顔の悪魔の人形を作った。そこから想起されたストーリー。月夜に悪魔が女の子をさらう、という物語の1場面を演じ続けた私。つるされた月の下で悪魔に襲われ続けていた私は、亜樹の母に救い出され遠い島国まで逃げ出すことが出来た。幼い亜樹に抱かれながら、私はずっと悪魔が追って来ないことを祈っていた。 人形が表情を変えないことは知っているけれど。 ねぇ、私は上手に笑えてる? * * * 亜樹の母親が亡くなった。らしい。 その日、なんでもない顔で部屋に帰ってきた亜樹は、いつもどおり机についてノートを広げた。シャープペンを持って、動かなくなった。しばらくして私を振り返った亜樹は、ガラス球ではない瞳から涙をこぼしていて、ふいに私を抱きしめた。私を見て「お母さん」と呼んだ亜樹の声は、可笑しいくらいに震えてひっくり返っている。 私の視界が亜樹でいっぱいになると、そこでは亜樹の腕と声がすぐ傍に在ることを感じられた。力のない私の体は、亜樹に抱きしめられ少しだけ変な方向に曲がる。白地に蒼いリボンをあしらったワンピース姿の私の背中に、亜樹の涙がこぼれた。 背中から涙を注がれたぶん、私もガラス球の隙間から水をこぼしてみたかった。そう思うほどに亜樹の気持ちが分かったから。そんなに泣かないで。 気づいていないかもしれないけれど、亜樹は亜樹の母にそっくりだ。悪魔に襲われる私を哀れんで、ストーリー性のある展示を気に入っていた店主を説得して、買い取って日本へ連れてきてくれた彼女と。 その母との違いは、亜樹はまだ生きていること。いくら絶望しても、この世に生けとし生けるものすべての足元に延びる路は、死なない限り途切れることなんてない。亜樹の進行方向に広がる路は、どこまで長く続いているかなんて分からないけれど、それでも確実に母のぶんまで幅の広い大きな路になっているのだろう。 母の香りを残すものとして私が亜樹にとって有用になってしまったのなら、亜樹の手でこの部屋から連れ出して捨てて欲しい。例えばぬいぐるみや水彩画、それらのように邪魔なものはすぐに取り除かれてしまう。私は邪魔なものでいるのが好きだから。私のせいで亜樹が母親のことを思い出にできなくなってしまうなら、邪魔なものでいい。 * * * 母を思って私を抱き、そして涙を流す亜樹の声は私を焦らせる。母のものであったビスクドールを抱えて、亡き母を偲ぶひとりの少女に、なにか言葉をかけなくては。なにかを口にして、彼女を安心させて、彼女を泣き止ませて、彼女を笑わせなくては。 そして訪れる現実。人形はものを喋らない。 でも、私は思う。 もし私が人形でなかったとして、私が人間だったとして、亜樹に聞かせられるような言葉が見つけられるだろうか。かつて彼女の母親が私にしたように、暗い影から亜樹を救い出すための言葉をかけられるだろうか。 私が、声を出すことのできる存在だったとして。 それでも悪魔に脅かされ続けた私の口から飛び出すのは、きっと醜い言葉だけだろう。そんな言葉で亜樹は励ませない。ましてや安心させ、泣き止ませ、笑わせることなどできやしない。たぶんそれは、私が人形だから。 人形は人間の姿かたちこそすれ、人間の心は持たない。 人形は綺麗な言葉など持たない。 * * * 私が捨てられたのは、どれくらいの時間を経てからだろう。喋ることのできないヒトガタは亜樹に必要でなかった。やはり邪魔なものはすぐにでも取り除かれる運命なのだ。 回収車を待つ間だけ、私は思い出すことにする。 亜樹の声と腕を。間違いなく私を抱いた、彼女のことを。 了 ≪□≫ |