冷たい、冷たい感触。それはもう痛いほどで――
 痛みで目覚めた私は、たった今、夢として目前にしていた光景は夢なんだと、過去なんだと言い聞かせた。それでも固く閉じた目蓋の隙間からは涙が溢れてきたけれど、こんなところで泣いたりしたらユウトに気づかれてしまうと理性が私を引きとめ、ベッドに横になったまま手の平で口を思いきり押さえた。嗚咽なんか、漏らしてたまるかと。それでも横隔膜が引きつり、私自身の体は大声で泣くことを求めていた。
 そっとベッドを抜け出し、部屋を抜け出し、洗面所に向かった。
 なにかが壊れてしまったみたいに、嗚咽をこらえながらも流れ続ける涙は限りなくて。いろんなことが頭をよぎった。
 寒い日。雪の日。壊れたガードレール。谷底へ転げた車。赤いライトを撒き散らすサイレン。病院の香り。消毒液と血の香り。怒鳴りあうように慌しく働く医療スタッフ。中央のベッドに寝ているのは、彼。すぐに追い出される私。廊下で待つ時間。短かった時間。首を振る医師。一瞬で無感情になる私。二度と起きあがらない彼にすがる私。お腹の痛み。痛み。痛い。
 痛い――
 フラッシュバックする過去は現実につながっていて、あの出来事は確実に私の身に降りかかったことなんだと認めさせられた。お風呂場と洗面所を仕切る曇りガラスの戸に寄りかかり、お腹を押さえながらうずくまる。
 あの日、ユウトと2人でお墓参りをした、あの日。私は決めたはずだった。ユウトに迷惑をかけちゃいけない、迷惑なんてかけない、って。こんなことで妊娠していることに気づかれたら、ユウトはどうするだろう。前、ニイに言われたことがある――自分の彼女がそんなに大事なことを隠しているなんて知ったら、悲しい、と。
 それに今は、エナちゃんがいなくなって、みんな不安に思っている。だから、私がこんなことで騒動を起こすわけにはいかない。ユウトだけじゃなく、ニイやコウジくんやトウヤくんにも迷惑がかかってしまう。
 ユウトを悲しませちゃだめ、迷惑をかけちゃだめ、嫌われちゃうから。
 私はふと結論にたどり着き、どうにか立ちあがるとお風呂場の戸を開けた。

 いきなり携帯が鳴った。といっても常にマナーモードにしているので、ぶるぶると暴れた携帯は床を勝手に動きまわった。こんな夜中に何事かと慌てて手に取り、フリップを開くと、そこには電話帳に登録されていないが、しかし見知った番号が並んでいた。どうしよう、と考えたのは2、3秒。とりあえず俺は通話ボタンを押した。
「……どうした」
 我ながら白い声に白い台詞。どうしたもこうしたも、あの女は俺のことを忘れないでいてくれたに違いない。いつかは結論を出さなくちゃならない――そんなこと、分かってたつもりだった。だけれど俺は、今の生活が妙に楽しすぎて、考えることさえ放棄していた。どうせ、サエももう俺のことなんか忘れてる――なんて都合のいい自己欺瞞だろう。
『ごめんなさい、こんな時間に……』
 なんで怒んないんだよ、サエ。ずっと行方くらましてて、連絡してくるなって言って、そんな俺の言葉をお前は長い間、守ってくれてたのに。怒れよ。お前が怒ってくれれば、俺は謝れるから。だから、怒れよ。
「いや、別に」
『本当にごめんなさい。あの、最近……どうしてる?』
 お前が訊きたいのは、俺の最近のことじゃないだろ。逃げ出してから、それから今日までのこと、全部だろ?
「んー……相変わらず仕事はないけど、ちょっと忙しい」
『……そう……』
 簡単な相槌を打ち、そしてサエは続けた。
『……帰って、きて』
 涙の滲む声で。

 なんで俺ってこんなに馬鹿なんだろ。エナのことを自覚した途端、その相手に勘違いされて失踪されてしまうなんて。馬鹿としか言いようがない。
 電話もかけてみたが、エナの携帯が持ち主を呼んだのは彼女の部屋で、だった。確かにエナは風呂あがりの適当な部屋着のままノーメイクで財布も携帯も持たずに――と思い浮かべたところで、自分の感情がどうこうではなく、純粋に彼女のことが心配になった。

 いない。
 ユナミが。
 なんだか嫌な予感がして、起きあがりベッドを出て共有スペースに出る。キッチンとリビングを見回すがソファで寝るトウヤ以外は誰もいない。となると残るは――トイレか。我ながら「嫌な予感」を感じたことが馬鹿馬鹿しくなり、僕は大あくびをしながら部屋に戻りかけた。
 音が、聞こえた。
 シャワーの音。苦しげな息遣い。
 自分の感じる嫌な予感は信じられないが、聴覚だけはそこそこ信頼している。エナによって「使用中」と書かれた、洗面所のドアにかけられている厚紙の札は裏返されたままだ。その状態でシャワーの音がすること自体、なにか変だった。
 ノックする。返答はない。ドアを開ける。
 バスタブの中に人影が見えた。服を着たまま、ぐったりと縁にもたれている。
「ユナミ……?」
 何らかの確信を持ってガラス戸を開ける。たぶん、僕の知らないところで最悪に不味いことが起きている。僕の知らないところで、僕から隠されたところで。
 シャワーのノズルから吹き出ているのは水で、浴槽に溜まりつつある液体も水だった。夏でも氷みたいに感じるほど冷たい水。湯気のない浴室は妙に白々しく、冷え切っていて非現実的だった。
「ユナミ、なにしてんだ! 一体……どうしたんだよ!?」
 腹を押さえ、小刻みに震えるユナミの体は驚くほど冷えていて、その頬には間違いなく涙の痕があった。水で濡れていても、僕にはそれが何の痕だか分かる。
 浴槽から引きあげてシャワーを止め、バスタオルで包みながら抱きしめた。冷たいユナミの肌はまるで――まるで死体のように白くて、色を失った唇は言葉を紡ごうとしてはいるが、まともに動く気配さえなくて。
 現状に怯えた僕は、ユナミを抱きながら同じ台詞を繰り返すことしかできなかった。大丈夫か。どうしたんだ。なんでこんなことをする。なにがあった。頼むから話して。ユナミ。お願いだから。しっかりしろって。どうしたんだよ。大丈夫だよな。ユナミ。
 ユナミの額を新たな水滴が濡らしたので慌てて拭き取り、そうしてからはじめて自分が泣いていることに気づいた。いくら拭っても、それは次から次へと溢れてきた。きっと僕は恐いんだ――ユナミが死んでしまうのではないかと、ユナミを失ってしまうのではないかと。あるいは、分からないが僕がこんなにユナミを追い詰めたのかもしれない、と。彼女の変化に気づけなかった自分を、僕は一生許せないだろうと漠然と思った。
 そしてユナミは僕の腕の中で辛うじて言った。
 私のこと、きらいにならないで。
 と。

 いきなり大きな声が聞こえて、俺は長い無言のあとで「またかける」と言って電話を切った。最悪だ。出会って付き合って同棲までした女に、人はここまで冷酷になれるのだろうか。少なくとも、俺はそうなることが可能だった。最悪だ。こんな俺が人間を名乗っていいのか、1分の半分くらい本気で考えた。
 そんな考えが中断されたのは、現場である風呂場にたどり着いたからで、ユナミを抱えて泣き叫ぶユウトや、薄い朱に染まった水の張られたバスタブが見えたからだった。水が染まっている原因がバスソルトであるわけがなく、ユナミとユウトを加味して考えればすぐに結論が出た。血だ。おそらくユナミの。
「救急車、呼んでやるから。落ち着け」
 ユウトに言うともなしに告げて、部屋に携帯を取りに行こうとした。やはりユウトは顔をあげないが、呟かれた声はなぜだか俺に向かって問われているような気がした。
「なんで……なんでユナミ、こんなこと……」
 言えなかったのか。
 ユウトの一言でユナミの思考が分かった。たぶんユナミはユウトに本当のことを言えなくて、ひとりで考えて抱え込んで、耐えられなくなったんだ。だから堕ろすでもなく、発作的にこんなことをした――これは俺の口から言うべき言葉ではなかったので、ユウトの言葉には答えず部屋に戻った。
 部屋に戻る途中で、ようやく目を覚ました(というかコウジは今日も寝れなかったのだろうから、「外の様子に気づいた」というほうが近い)コウジとトウヤに会った。「風呂場に行くなら毛布持ってけ」と何の説明もなしに言うと、2人とも変な顔をしたがトウヤは応じてくれた。もしこの場にいたのがサエだったら、あいつはどうしただろう――そんなことを反射的に思ってしまい、慌てて思考を飲み込んだ。
 サエとトウヤを比べるべきではない。そんなことは分かってる。

 夜中だったら、誰にも気づかれずに荷物持ってこれるかな。そんなことを考えて、あたしは川沿いを歩いていた。あの部屋に向かって。この道は、コジさんの自転車の後ろに乗ってよく通った道だ。
 なんで逃げたかも分からないなら、逃げなければよかった。正直に言って、どんな顔で皆のところに――コジさんの前に戻ればいいのか分からずに、考えるだけで5日も過ぎた。
 あたしの家じゃないところからバイトに行って、あたしの家じゃないところに帰る生活にもいい加減疲れた。あたしはあんまり友達が多くないから、友達の家に泊まらせてもらうことすら満足にできず、バイトしている24時間営業のコンビニやファミレスの休憩室を使わせてもらっている。
 と、救急車とすれ違った。なぜだか少しだけ気になったけど、特に行動を起こすでもなく歩き続けた。気になったからって救急車を止めるわけにもいかないし、勘が働いたからって救急車を止めて、まったくの他人が乗っていればただの狂人でしかない。
 離れたところから、みんなの部屋に続くエントランスを見る。たった5日帰らなかっただけで、こんなにも懐かしく思う。それに、たった5日帰らなかっただけで、あの部屋はなんだかあたしを拒絶しているように見えた。均衡を崩すようなあたしは、みんなと暮らすことに相応しくないのかもしれない――そんなことを思っても、他に帰るべき場所はないというのに。
 なんだか苦しい。確かに考え込むのはあたしの性に合わないけど、それだけじゃない。先生のこと考えるのと同じくらい、もしかしたらそれ以上に苦しかった。先生を思い出す以上に苦しいことなんて、死ぬまでないって思ってたのに。視界が滲みそうになって、あたしは慌てて両目を閉じた。
 エントランスに近づくと、もう朝と言ってもおかしくない時間なのにも関わらず人影があった。声なんか聞こえないほど離れていても分かる。あたしには、分かる。コジさんと、トヤくんの姿だ、って。
 ずるい。あたしは誰にも気づかれない時間に財布と着替えを取りに来ただけなのに、なんでこんな時間に起きてるの。ずるいよ、コジさんの顔なんか見たら、あたしは――
 帰れない。

 どうして、こんなことになったんだろう。本当は部外者である僕だって、それなりに皆のことが分かるようになってきたのに。
 ニイは、口調が乱雑だけど面倒見がいい。僕のことをなんでもなく受け入れてくれたし、ユナミが妊娠していることに気づいて煙草をひかえたりする奴。その行動で僕もユナミの変化に気づいたわけだけど、その可能性を考えつけないのはご愛嬌。実は天然っぽいのもご愛嬌。
 ユウトは、無愛想で色々と不器用だけど本当はいい奴。料理だってできるし、ギターも素人の僕が聞いて分かるくらい上手い。ユナミのことを何よりも大事にしてる。僕たち同居人のことも、ちゃんと大切に思ってくれてる。表面に出さないから、たぶん、だけど。
 エナは、妙なところがあるけど黙っているぶんには可愛い。口を開けば、可愛いというより面白い、だけど。行動や言動は女の子として不合格なことが多くても、ずっとひとりの人を想い続ける一途な奴。家事は任せられないけど、それでいいって思うくらい歌が上手い。
 コウジは、ちょっと頭が弱くて童顔だけど真面目で一生懸命。あと、虚弱で小心者だけど。ライブハウスでスプリンクラーが壊れたとき、誰に言われるわけでもなく客席の床を拭いていたりするお人よし。小さい頃、こんな兄ちゃんが近所に住んでれば面白かったと思う。
 ユナミは、今でもユウトにはもったいないって思うくらい内面も外面も綺麗な人。たいてい、にこにこ笑ってる。たまに声もかけられないほど沈んだ顔をするけど。誰のことも否定したりしない公平さを持っていて、そして見てるのが恥ずかしいくらいユウトと仲がいい。
 なのに。なのに、なんで僕たちは穏やかな日常を過ごせないんだろう。
 どれだけ現状に固執していても、変わらないものなんてないのかもしれない。お互いがお互いに抱く感情が変わらなくても、その距離が変わってしまうことはよくあることで。距離が変わったことの違和感を乗り切れるのは、ほんの一滴――海にこぼれた雨のひと粒くらいのヒトだけなんだ。
 なんで僕たちは、そのひと粒のヒトになれないんだろう。
 つながりが弱いわけじゃないのに。そんなわけ、ないのに。

 妙な胸騒ぎは止まなかったけれど、あたしは部屋に戻ることができず、ファミレスの控え室に帰って眠った。その次の日、あたしはいつも使うライブハウスの人に会った。最近どのくらい練習してる? とか訊かれて、ちょっとだけ気まずい世間話をして、一枚のチラシをもらった。そのライブハウス主催の、夏のイベント。夏の終わりにバンドを集めて開く、夏という季節の打ち上げ。
 ヘルキャットに出演して欲しいんだ。皆で話し合ってもらえるかな。
 こんなオファーをもらったのははじめてで、もちろん嬉しかったし、皆も驚いたあとで喜ぶと思う。この話を持って帰れば、皆に早く報告したい嬉しいニュースを見つけたバイト帰りみたいに、なんでもない顔であの場所に戻っていい気がした。あたしが勝手に逃げ出して状況をギクシャクさせちゃったんだから、あたしがバイトから帰ってくるみたいに部屋に戻れば、きっと受け入れてくれる。変な確信があった。
 ステージに立つ以上に緊張したけど、なんでもない顔で部屋に帰った。だけどそこにいたのはニイさんと、コジさんとトヤくんだけだった。ユトさんの仏頂面がなければ、ユナミさんの笑顔もない。
 あのチラシを見せた。だけれど返ってきたのは沈黙だけで。
「俺たち、そんな気分じゃねぇんだ」
 と、ニイさんは言った。またリビングが静まった。
「それより、おかえり。エナ」
 どこか疲れた顔を笑顔の形にして言ったのはトヤくんで、ニイさんもそのあとに同じことを言ってくれた。その言葉をかけてくれなかったコジさんは、あたしが黙って自分の部屋に戻ろうとしたところで、声を聞かせてくれた。
「エナ。少し話したい」
 真面目な声――どちらかといえば無感情な声で、コジさんは言った。

 何も言わず玄関の外に出た俺について来たエナは、俺を見ようとはせず遠くを眺めていた。
「……大丈夫だったか?」
 俺が訊くと、エナはぎこちなく笑った。
「危ないことなんて、あらへんよ。友達のうちに泊めてもらっただけやから」
 俺もエナも、どちらも視線を合わせることなく言葉をかわす。それで分かった。エナは俺に本当のことを言ってくれない。それは「心配させたくない」なんて心遣いじゃなくて、俺はエナにとって本音で語るに足りない人間なのだろう。ファンの子とキスするような男、エナは嫌いに決まってる。軽蔑されただろう。
「そっか……。ならいいんだ」
 嫌われていると分かっていて、好きだなんて言葉は口にできない。心配していたなんてことも、エナには言えない。俺がなにを思っているかなんて、声にしてもエナに迷惑なだけだ。せめて自分にこれ以上の恥をかかせたくなかった。好きでもない女と唇を合わせている場面を好きな女に見られただけで、ありえないほど恥をかいたから。
 ごめん。心の中で自分とエナに謝って、俺は黙ったまま部屋の中に戻った。

 ごめんね、コジさん。心配かけさせて、ごめんね。
 ひとり玄関ドアの前、廊下に残ったあたしの足元に、ぽつりと水滴が落ちた。それは誤魔化すこともできないうちにコンクリートに浸み込み、せめて痕跡を隠すため、あたしは地面に座り込むことで涙の痕を隠した。
 2人で話した、そう長くない時間。ずっとコジさんは難しい顔をしてた。目の下に、クマがあった。疲れた顔だった。大人びたのとは違う、くたびれて元気がないせいで、落ち着いた顔をしていた。落ち着いた態度だった。落ち着いた声だった。
 あたし、勝手に逃げ出して、勝手に帰ってきたけど、それでも我がままを言えば。
 帰ってきてすぐに、
 コウジの、笑った顔が見たかったよ。



 了・続


 
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