しん、と静まった白い部屋。それはこんなにも居心地の悪いものだった。 「なんで何も言ってくれなかったの」 僕はため息をつき、何度目かも分からない疑問を口に出す。 「…………」 白いシーツの眩しいベッドに横になるユナミから返事はなく、やはり何度目か覚えていない沈黙が部屋に沈殿する。相手に応える気のない会話を続けることは空しくて、ただ空しくて、そのうち僕は自分の言葉が空気に溶けるさまさえ見えるような気がしてきた。僕が空気中に放した声は、波紋も立てずにすっと透明に溶けて、いつの間にか消えてなくなる。そんな映像が見える気がした。 ユナミが僕に言ってくれなかったこと。彼女が妊娠していたこと。だけれど普通に出産できるか分からなかったこと。ずっと体調が優れなかったこと。思いつめて冷水につかり、終いには流産してしまったこと――あの日だ。すべて僕に教えて欲しかった。ひとりで抱え込まないで欲しかった。 「俺に言っても仕方ないって、思った?」 世界が狂っても、ユナミがそんなことを思わないと知っていた。僕らは相手を疑ったり、信用しなかったり、見限ったりしない。絶対にそんなことないと言い切れるのは、僕にとっての彼女だけじゃない、ユナミにとっての僕だってそうなのだから。僕たちふたりは、そうじゃないといけなかったんだ。 面会時間が終わる。僕は立ちあがりパイプ椅子を片付けて、ドアノブに手をかける。ユナミの声を聞けなかったのは今日だけじゃない。僕がユナミの声を聞いたのは、みんなの部屋のバスルームで聞いた、嫌いにならないでという言葉が最後だった。 「ユウト」 背中に声をかけられ、僕は少しだけ驚いて振り返る。 「エナちゃんが持ってきたライブ、やろうよ」 声に表情がなかった。 「私、その日までに退院するから。見に行くから」 僕が答えあぐねると、 「ライブ、やって。私、見に行く」 声にも顔にも表情のないユナミ。 僕は小さな声で「分かった」と言って病室を後にした。 それからライブまでの1ヶ月とちょっとの間、僕たちはその間だけ元に戻った。ただ、ユナミがこの場にいないことを除けば、本当に「元に戻った」としか表現のしようがなかった。コウジとエナのじゃれる時間は激減していたが、この部屋に漂う基本的な雰囲気は変わらず、僕にすべてを夢と疑わせるほどの力を持っていた。 ユナミと出会う前。僕がコウジとニイとエナにしか感情を許せなかった頃。今、というのは――その時期の僕たちにトウヤが加わっただけで、僕の隣にユナミという女が存在していた時間は長い永い夢だったんじゃないか。幸せで、温かい、温かい悪夢。 僕は気づいた。 ユナミのことを夢と思い込むなんて、自分は正気をなくしかけている、と。 早く、彼女を見ないと、笑顔を見ないと、声を聞かないと、触れないと、抱きしめないと、このまますべてを失ってしまう。 僕にはユナミが必要だった。 今頃、ニイにユウトにエナにコウジは、そわそわしながら舞台袖で、このあまり上手くないバンドの演奏を聴いているだろう。HELLCATの前のバンドが終わる。ニイたちはプログラムの最後から2番目だった。 客席で久しぶりに会ったユナミは、ただでさえ細身だったのに余計にやつれていた。いつも浮かべていた表情はなく、仏頂面でもない純粋な無表情で他のバンドの演奏を聴いている。ユウトから頼まれただけでなく、僕自身がユナミを心配していたから、その日、ずっと壁にもたれて無表情で演奏を聴くユナミの傍にいた。 「ユナミさん、そろそろ前のほう行かないと」 「……えぇ」 ユナミの声も表情はなかった。 ニイが言う。 「あがるなよ、コウジ」 コウジが答える。 「……なんで俺だけ。ニイさんこそ。今日、彼女来てるんだろ。サエさん、だっけ?」 エナが茶化す。 「えー、そうなん? じゃあニイさんを見とる女の子探しとくわ」 ユウトが無視する。 「ミスるなよ、コウジ」 エナが憮然とする。 「ユトさん、あたしのこと無視せぇへんといてくれる?」 ニイが上手くまとめる。 「くだらないこと言ってんなよ、そろそろ行くぞ」 ユウトとコウジ、エナが答える。 「おぅ」「あい」「はーい」 元通りの雰囲気で。 ニイさん、ユトさん、コジさんがあたしより先にステージにあがる。歓声。この3人の中では、やっぱりユトさんを呼ぶ声が目立つ。もっとも無愛想なあの人は俯き気味な会釈しかしないが、それでも歓声はさらに勢いをつける。 時間がもったいないので、あたしもすぐに舞台の端っこに立つ。歓声が増し、あたしは頭の高い位置でひとつに結った髪が頬に垂れるのを感じながら、深々と頭をさげる。反動で顔をあげ、背負ったギターに気を使いながら走るようにマイクへ。ネックを下向きに、アコースティックでよくやるように背負っていたギターを体の前に戻し、改めて正面を向く。 3人に目配せをして、静寂の中にユトさんのギターが響く、2フレーズを終えたところで照明が点き、あたしのギターとコジさんのベースにニイさんのリズムが入る。弦楽器3人は長めの前奏をそれぞれのマイクの前で奏でる――はずだった。 ユナミさんを探したあたしの視界に、あのひとが居た。 変わってない。何年ぶりだろう。どうしてここに。 そんなことを考える間に、あたしは両手がおぼつかなくなって客席に背を向けていた。いきなり演奏をやめて後ろを向いたあたしを気にしながらも、ニイさんユトさんにコジさんは曲を続ける。 落ち着け、あたし。きっと見間違いだから。別人だから、落ち着けあたし。 出だしが揺れたけれど、かろうじてあたしは唄うことができた。 1曲目が終わると、ニイさんはコーラス用の自分のマイクを使って予定にないMCを入れた。 「どーも、HELLCATです……とか挨拶する前に、ウチのヴォーカルがテンションの発作を起こしたらしいので、しばらくコウジの独壇場でお楽しみください」 急に話を振られ、コジさんはチキン丸出しであわあわしていた。だけれどユトさんの冷静な「一言ツッコミ」が炸裂し、衆人環視のもとコジさんを衰弱させる場としか思えないMCがはじまった。ドラムセットの横に手招きされたあたしは、大人しくニイさんの緊急呼び出しに従う。 「どうしたエナ。2、3回うちのバンド聴いたことある奴なら分かるくらい変だぞ」 「え、あ、まさか……音、ハズしてた?」 「それはねぇけど。でもエナ、動揺おさまるまで口開くな。標準語になってる」 「動揺、してるわけじゃないけど、客席にムカシの顔がいるから……」 「昔の顔って、先生?」 「……なんでかは分からないけど。でもかなりのギターロック好きだから、あの人」 「忘れろ。今は忘れて唄え」 「…………」 「今日は成功させねぇとダメだろ?」 「うん……そやね。了解!」 ひそひそと早口にあたしへの教育的指導は終わった。あのときのコジさん以上に「ほっとした」を表現する顔を、あたしは知らない。 「はいはいはい、おーきにー。ユトさん……とコジさん」 「おいエナ、俺オマケ?」 いつもどおりの雰囲気で声をかけてくれるコジさんに、あたしは無意識に笑顔になってしまったと思う。最近はずっとこんな会話もなかったから。ステージの上だけでも、コジさんの言葉は嬉しかった。言葉で言い表せないくらいに、嬉しかった。 だけれどステージ上のあたしは素でコジさんと話すわけにいかない。いつものパターンで、こういう展開になったら無視と決まっている。MCで必要以上に笑いをとるあたりも、あたしたちのライブがそこそこの評判を得るポイントなわけで。 「発作、治まったでー! というわけで2曲目、Not Care A Brass Farthing」 あたしがギターを無造作に鳴らすと、ニイさんがテンポをとってユトさんの音とあたしの音が混ざる。前奏を終え、1フレーズを唄う。その後に再びマイクから離れ、ユトさんのギターがひび割れた音を伸ばしているうちに照明が暗転した。ニイさんがスティックを打ち鳴らすのに合わせ、破裂音のような力をもって3本の楽器が鳴る。そして曲に合わせてコジさんとユトさんとあたしが跳び、着地と同時に照明が点いた。 大きな歓声があがった。 今日の客席にいるのはほとんどが出演者で、一般へのチケットはだいぶ数が規制されたため、俺らが出番を終えて、こっそり客席に混ざってもファンに取り囲まれたりしない。俺があいつを探していると、それよりも先にサエが俺の姿を見つけた。 「久しぶり、だね。ユキくん」 「……あぁ……」 「すごい良かったよ。ライブ」 「あー……ありがと」 笑えるくらい会話が弾まない。いや、俺が一方的に弾んでないだけか。 「……嬉しかった。はじめてライブに呼んでもらえて、ユキくんの仲間を見れて」 「そうか?」 俺、どんなふうにサエと話してたっけ。口を開けば、彼女を傷つけそうな言葉しか浮かんでこない。どうやって一緒に居た? どうやって傷つけないで、大事にしてきた? 自分が何を疑問に思っているのかはっきり分かってしまうと、その答えも自ずと湧き出てきた。 たぶん俺は過去に一度も、サエを大事にしたいと思ったことがない。 来てしまった「その日」――サエとトウヤに連絡をとる「その日」までに、結論を出すと決めたのは俺だ。その日が来るのは意外に遅くて、そして結論を見つけるのは意外に早かった。 「サエ」 この日はじめて自分からサエの名を呼んだ。 「なにが変わるわけでもねぇけど、はっきりさせとこう」 「この前、私が電話で言ったこと、だよね……」 と答えて、涙目を隠すように俯いたサエを見て俺は確信した。俺はサエを傷つけることしか出来ないのだと。おそらくこれは性格の、相性の問題で、努力で改善できるとも思わなかったし、努力で改善しようとも思えなかった。俺は、最低に性格が悪い奴だから。 「別れよう。すでに付き合ってるとは言えねぇけど」 サエはなにを言うでもなかった。 「俺は、沢山お前を傷つける。辛いんだ、気の利いたこと言えねぇのに、傍にいるのは」 「私……傷ついてないよ。私がトロくて間抜けだから、ユキくんを笑わせてあげられないって……今までも、そう思ってたから」 俺は口に出さずに何度も謝罪し、決めた。 わざと、嘆息をつく。 「……いいから別れてくんない? もう飽きたから」 サエ自身、今まで傷つけられたと思っていないなら――最後に、最後だけ彼女を傷つけようと決めた。考えられる限りに酷い言葉を探す。こうすれば、俺が一方的に悪人になれるから。別れの原因は、完全に俺ひとりのものになるから。サエを傷つけることで、最後に俺はサエから後悔を奪う。別れたことへの後悔を、俺への侮蔑にすり替える。 サエは小さな失敗や後悔を長く引きずってしまう女だから、俺は最後に―― 「近藤エリナ。やっぱり、か」 「……こんなとこで……なにしてるの、先生」 「俺がギターロック好きなの、知ってるだろ? それにしても、お前が元気そうで安心した。我ながら、あの突き放し方はないと思ったからな」 「我ながら、は酷いね。先生」 「それ……俺がよく言ってた、よな。……近藤エリナ、お前いい女になったな」 反則だ。だってあたし、まだ―― 「知ってるか? 女はコイをすると綺麗になるって言葉」 「そんなのっ……あたし、先生が――」 「俺に無理やり迫ったあの頃より、全然美人だよ。今のお前は」 「……そんなわけ――」 「ある? ……そろそろ俺のこと許してくれてもいいだろ。ステージに立ってる間だけで俺にも理解できたくらい、あのベースの男に夢中――ってカンジだったし」 「………!?」 絶句。なんだそれ。あたしがコジさんのこと、好き――ってこと? 「やっぱり図星か」 「違うししかもなぜあの虚弱!? いきなり現われて、いきなり理解不能なこと言うな!」 「その慌て方、アヤシイぞ」 「な……ちょっと待ってよ! あたし、ずっと先生のこと好きだったんだよ!? なのになんで他の人なんか――」 「だーかーら、それは俺を恨むがゆえの思い込みだって言ってんの。空気読めよー、近藤エリナ」 再び絶句。あたしが再起動するよりも先に、野木倫太郎がとある方向を指さした。 「ほら。お前が騒ぐから、こっち見てるぞ。あのベーシスト」 「ちょっ……指ささないの! ばっかじゃないの!」 「…………」 「なによ? 急に黙んないでくれる」 突然静まった野木倫太郎は、ぽつりと言った。 「はじめて会ったとき、同じこと言われたなぁと思ってさ。『ばっかじゃないの?』って、テンションが今とは全く違って、すっごい冷めた声で言われたのを覚えてる。恐かったから」 「そんなこと言ったかもね」 「だからさ、これだけお前のテンション上げられる奴が傍に居るなら、そろそろ俺も罪悪感を感じないでいいかな、と思ったわけだよ。俺が突き放したせいで、近藤エリナがダメ人間に落ちぶれてたらどうしようって、ずっと思ってた」 「……先生……」 しばらくの沈黙。だけれど次のバンドが演奏するすぐ隣の部屋に設置されたバーでの会話なので、静寂は気にならない。むしろ心地よかった。 「ね、あたし思ったんだけど……。野木倫太郎、あんたもつくづくいい男だよね。ダメ人間とか、酷いこと爽やかな顔で言うけど」 「だろ?」 「……ばいばい、野木倫太郎」 「あぁ。……じゃあな、近藤エリナ」 野木倫太郎は憎たらしいほど格好良く笑み、あたしも少しだけ冷めた顔で笑った。 「トウヤ、ユナミは」 走って僕のところまで来たユウトが早口に訊ねた。僕は答えるべき言葉を探す。そして何を言うよりも先に見せるべきものに気づいた。 「ここにいるよ」 片手に持った封筒をユウトの目前にかざす。封筒の表に書かれた「ユウトへ」という短い言葉が、間違いなくユナミの字であることを確認したのか、数秒の間をおいてユウトは封筒を受け取った。その場で開く。 1枚目の便箋に素早く目を通す。2枚目を捲ると。 愕然と立ち尽くすユウトの手元が気になって、つい覗いてしまった僕は酷いものを目にすることになった。 字がびっしりつめられた1枚目の便箋に対し、2枚目は―― 「さよなら」 たった一言で、ユナミはユウトの前から姿を消してしまった。 了・続 あと1話! ≪□≫ |
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