山のふもとのバス停で下車した。間違いなく僕の目の前に立ちはだかっているのは自然の塊である山で、だけれど後ろを振り向けば、そう遠くない場所にビルが見える。
 あの部屋で僕たちが暮らしていた街から離れると、そこにはもう秋が近づいていた。
 ニイと、コウジと、エナと、トウヤと、そしてユナミと、彼らと僕があの部屋に住み着いてから1年がすぎ、2年近くの時間が流れていた。バンドのメンバーだけで暮らしていた時間が春ならば、ユナミが加わったのは初夏で、トウヤが加わったのは晩夏だった。そして昨日のライブで、夏は完璧に終わったのだ。残暑もなく。ページをめくるように、あとかたもなく。
 僕らの生きる人生に抑揚をつけるための、記号であり周期である季節ではない。ヘルキャットと名づけたバンドの、その行く末を占うための季節だ。
 春が過ぎ、夏を迎え、秋が訪れた。季節が逆流することは有り得るのだろうか。
 エナとニイは、昨日のライブで決着をつけた。エナは“先生”と偶然にも出会い、おかげで自分が“先生”のことを愛していたことに気づいた、という。現在形ではなく、過去形で表したエナの言葉によどみはなかった。
 ニイは明確な別れを決める前に連絡を絶った彼女と再会し、あらためて「別れ」を告げたという。そのときトウヤはどこか沈んだ顔をしていたが、誰かがそれを口にする前にニイがトウヤを連れ出してしまった。
 今日は僕が、決着をつけなくてはならない。だから、ここにいる。
 ユナミの過去を象徴する、山のふもとに孤立した施設。
 自分の心から逃げられなくなった人が、このクリーム色の建物の中にいる。

 昨日のライブを意識して、わざと今日はバイトを入れなかった。丸一日使って、ゆっくり休むため。といっても、夕方6時まで眠りこけるのは、我ながらやりすぎだと思う。
 あたしは、昨日の夜というか今日の早朝に眠ったままの格好――Tシャツとハーフパンツで起きあがり、私室を出た。途端にくしゃみを一発、意外と寒かったのでソファの上に放置されていた誰かのパーカーをTシャツの上に着て、洗面所に向かう。かろうじて中指の先が見えている程度の袖を肘の上まで捲くりあげ、思ったよりも冷たかった水に怯みながら顔を洗った。タオルで顔を拭き、そのまま洗濯機の蓋を開けて放り込んでリビングに戻る。
 どうりで寒いわけだ。しっかりと覚醒した目でリビングを見回せば、気持ちいいぐらい開け放たれた窓が見える。この時間に窓を全開にするおバカさんがいるとは思わず、しかも1畳あるかないかのベランダに続く窓だけれど誰も開けないので、さっきは気づかなかった。
 最初から泥棒だなんて可能性は考えず(だってこの部屋は築32年フビルの5階だから)あたしは窓に向かう。くしゃみをもう一発、わりと豪快に放ちながらベランダを覗くと、
「コジさん?」
 窓を全開に開け放ちベランダに出ていたおバカさんがいた。
「あーエナ。おはよ」
 なんて呑気に挨拶してくるので、
「おはよ」
 夕方であるにも関わらず、あたしは片手をあげて答えた。ついでにコジさんを見習い、裸足のままコンクリート剥き出しのベランダに出る。
「こんなとこで、なにしてんの?」
「飲んでる」
 コジさんが小さく掲げたのは缶ビール。視線の先には橙に染まった川原と川と対岸の高層建築。
「ちょうだい」
 隣に立って、同じものを眺めながら手を出すと、
「それ俺のパーカー」
「ふうん。借りた」
「……どうぞ」
 そっぽを向きながらも言って、コジさんはビールを一口すすった。
 あたしは、コジさんのこういうところが好きだ。もちろん男としてじゃなくて、人間として好ましいということだけれど。もちろん。
 なにをしても文句も言わず、怒るでもなく、微妙な顔をするだけで納得しちゃうところ。あたしよりも年上(童顔だけど)のくせに、押しに弱くて、ちょっとだけ強がるあたり。
 持ち主を知ってしまうと、パーカーからはコジさんのにおいがした。
「ちょうだい」
 もう一回同じことを言って、同じことをする。コジさんは少しだけ惜しそうな顔をして、缶を持った手で部屋の中を示した。この部屋のルールとして、基本的に嗜好品は自腹だ。
「冷蔵庫」
 あたしは「ごちそうさま」と言ってコジさんの背中に軽く触れ、部屋の中に引き返した。

 やはりユナミはここに来ていた。なにかしら手がかりを残して行ってくれたわけではなく、基本的に僕の勘がはたらいたからこの施設を訪ねたに過ぎないのだが、当たりだった。
 職員だという女性に訊ねたところ、ユナミは屋上にいるという。僕はジャケットのポケットに入っている最後の手紙に、そっと触れた。
 ぎっ、と音を立てて屋上への重いドアを押し開けると、黒い髪の背中がこっちを振り返った。僕は黒髪のユナミに違和を感じたが、その理由がすぐに思い当たった。昨日まで、彼女の髪は胸のあたりから先が茶髪だった。彼女が前の彼氏を亡くしたあの事故のあと、ずっと切らずに伸びてしまった半端な黒と茶色の髪。それが少し短くなって、そして真っ黒になっている。
「ユナミ」
 僕が呼びかけると、ユナミは表情のない顔で僕を見返した。
「ユウト、どうしたの。私、さよなら言ったのに」
 感情のない声。僕は責められていると思った。なんで私を探すの、と。
「やっぱり、俺たち……別れた、のか?」
 あの手紙は、そういうことだった。僕は気づいていた。
「私、ユウトの彼女になれないから。上手くできないから。ユウトには、支えてくれる人が必要なの。私、支えてあげられないから。支えてもらうしかできないから。
 負担になって……迷惑になって、嫌われちゃうから。だから、私たちは別れたの。
 さよなら」
 感情のない声。表情のない顔。
「……わかった」
 僕はそう答えるしかなくて、屋上から立ち去ろうとした。
 屋上から立ち去ろうとした、そのときに気づいた。今、ユナミが言ったことは全面的に正しい、と。ならば、彼女の言葉をすべて別のもので隠してしまえばいい。
「ユナミの言うことは、正しいと思う」
 彼女は無言。僕は続けた。
「だから、俺の彼女にならなくてもいい。ただ、」
 真剣で真面目な場面は苦手だ。たくさん喋るのも苦手だ。
 僕はユナミに近づき、触れ慣れた手をとった。
「ユナミが苦しまなくていいように。俺も……寂しい……とか、思わなくていいように。
 結婚してくれるなら、ユナミは俺の彼女にならなくてもいい。
 俺も支えてもらえるし、ユナミを支えることもできる。嫌いになんかならないって、誓う」
 本当なら、ここで指輪のひとつやふたつ出せれば格好いいのだろうけど。生憎、僕は気の利いた“キャラ”じゃない。僕のポケットには、ユナミの最後の手紙しか入っていない。
 ユナミは無表情のまま僕を見た。

「今度はどこに隠れるの、ニイ」
 トウヤは訊いてきた。何の感情もない、ただ疑問に思ったから訊ねただけ、という声。
「隠れるつもりはねぇよ」
 俺は思ったままに答えた。
「……言ってくれればよかったのに。僕のせいで、浮気したとかいう強迫観念にとりつかれちゃったんだってこと」
 トウヤの声が笑っている。
「僕だって男だし、僕だってノーマルだよ。ただ少しあけっぴろげで動物的なだけで」
 俺はまだ長い煙草を力いっぱい灰皿に押し付けた。
「誤解を引き起こしそうなこと、でかい声で言うんじゃねぇ」
「口で言ったことなんて、軽いよ。なんとでも言えるんだから。例えば僕は同性愛者ですだとか、僕はお金に困ってませんだとか、ね。嘘か本当かなんて、分かんないんだから」
「……論旨をすり替えるな」
「言葉より行動だよ、重いのは。例えばここで僕とニイがキスしたとする、すると考えるよりも早く僕たちは“アブノーマルだ”って周りに認識されちゃうし」
「その例えはやめろ」
 新しい煙草を取り出し、火をつける。
「お前が意味分かんねぇこと言い出すから、何を話しに来たのか忘れただろうが」
「物忘れは痴呆のはじまりだよ、年長者さん」
 煙と一緒に大量の二酸化炭素を吐き出した。
「今日はやたら好戦的だな、トウヤ」
「そんなことないよ、ニイ」
 トウヤはにこりと笑う。
「僕たち、いい友達だからね。……普通以上に仲のいい」
「それほど否定はしねぇけど……意味ありげなコト付け足すのはやめろ」
「はいはい。りょーかい」
 はきはきしていて、少し変な、そんなトウヤの第一印象が俺の中で変わることはなかった。今もトウヤは、朗らかに笑っていた。

 よく冷えた缶ビールを片手に窓へ戻ると、コジさんはベランダに両足を投げ出して、窓枠の内側に腰かけていた。あたしは無意識にその隣に座り、プルタブを起こした。
「なー、エナぁ」
 ろれつの回らない声。そういえばコジさんはアルコールに弱かった。
「どしたの、コジさん」
「俺さー、お前に嫌われてる?」
「は?」
 どうしたんだろう、この人は。
「なんか避けられてる気がしたし、喋ってくれないし」
 なんだか拗ねたみたいな言い方をするコジさんが可愛くて、あたしはつい笑ってしまう――いや違う、コジさんと「可愛い」という言葉は永遠に相容れないものだ。
「ううん。別に」
 あたしが答えると、コジさんは小さく笑って「よかった」と呟いた。
「30秒だけ、絶対に動かないで。エナ」
 ふいにコジさんが言い、あたしは首を傾ぎながら頷いた。こっちに伸ばされる大きな手が、あたしの目蓋を押さえて、下ろした。この目の塞ぎ方って、映画なんかでよく死体に対して行われているような――ちょっと腹が立ったところで、頬に何かが触れる。そのまま、暖かな体温に包まれた。
「コジさん……」
 目を閉じたまま、あたしは言い、
「30秒、経った」
 続けて目を開けると、虚弱とバカにし続けたわりに意外としっかりした、コジさんの腕に抱かれていた。あたしは片手で自分の頬に触る。
「……なにした?」
「なにも」
 頭の上から、やけに白っぽい声が降ってきた。あたしは真横の腹に思いきり肘を入れる。非常に考えにくいことだけれど、手で触る感触じゃなかった、ってことは、頬にすることなんて他にないじゃないか。
 それでも口じゃないなんて、やっぱりコジさんってチキンなんだ。
 大げさに、仰向けに床に寝転がるコジさんの隣に、同じように倒れてあたしは呟いた。
「いくじなし」
 絶対に、あたしからは折れてやらない。いつまでだって、待ってやるんだから。
 待たされるのって、あんまり好きじゃないけれど、ね。

 ユナミが僕の言葉に答える。思いもしない言葉が飛び出した。
「謝謝。有没有……」
 僕が、昔、住んでいた国の言葉。その国にいい思い出はないが、流麗な言語は今でも好きだ。そう、ユナミに話したことがあった。そもそもユナミは英語やドイツ語の文を日本語に訳す仕事をしていたから、たとえ何語であろうと言語と相性がいい。いつからかは分からないが、確実に僕が中国語について話したあとで、彼女はその言葉を勉強してくれたのだろう。
「指輪、は?」
 「有没有」の続きが向こうの言葉で出なかったのか、日本語で続けたユナミは久しぶりに小さく笑った。日本語を付加してユナミの言葉を訳せば、「ありがとう。指輪はありますか?」となる。ユナミが入院した日以来の笑顔を見て、僕の体から一気に力が抜けた。
「……対不起。没有」ごめん。ないです。
 屋上に情けなくしゃがみこみながら、僕は向こうの言葉で答えた。やたらに体が震えるのはなんでだろう、寒くも恐くもない、ただほっとしただけなのに。
 座り込み、へたりこむ僕の隣にユナミは座る。かろうじて肩も腕も触れない距離。
「私、上手く出来ないよ? “彼女”が“奥さん”に変わっても」
 ふざけて確認するように、ユナミが笑う。
「下手でいい。俺も上手く出来ないから」
 お互い様ね、言って抱きついてきたユナミを抱きとめ、これから先のことに思いを馳せた。このまま趣味のバンドとバイトを平行して続けていく生活で、自分とユナミを養っていけるのか、とか、あまり柄じゃないことを考える。とりあえず、まともな仕事を探す必要がある。
 大丈夫。僕が今、手にしているものたちは、きっと切っても切れないくらい図太い縁があるだろうから。だから今の生活を捨てても――ニイとコウジと、エナとトウヤと、そして魔女という意味を持つHELLCATという名のあのバンド、皆と、まったく関係が無くなってしまうわけではないから。
 決めた。
 僕はバンドを辞める。

 半年後。
 築32年のビルの5階。妙な間取りの住居には、なんの繋がりもない四人が住んでいる。傍からみれば可笑しな部屋の住人は、未だ恋人未満な童顔の男と標準語を使うようになった女、普通以上に仲のいい親友同士の男が二人。彼らがバンドを組んでいたのは、過去の話。
 妙な住人のいる妙な間取りの、妙な部屋のある妙なビルからそう離れていない普通のアパート。
 そこに、言葉少なだけれど全てを許しあった、下手くそな二人が住んでいる。
 家族が増えるのはまだまだ先の話。でも恐らく、それほど遠くもない先の話。




 了

 


広告 [PR] 紅葉めぐり わけあり商品 ヒートテック 無料レンタルサーバー ブログ blog